思考過多の記録
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2003年01月05日(日) 離れてしまった人生

 今年もいろいろな人から年賀状をいただいた。僕の場合、主に高校時代くらいからの友人や恩師などが中心である。普段は会う機会は殆どなく、年賀状のみで消息を確認し合う人達が多い。
 僕が高校に入学してから早いもので20年以上が経過した。その後OBとして出入りしているときに知り合った部活動の後輩達とも、もはや10数年来の付き合いということになった。結婚をするなどして連絡先が分からなくなってしまった人達も多いが、それでも名字が変わった何人かとは今年も年賀状をやりとりした。



 時の移ろいとともに、相手の状況も変化してきている。学校卒業後の進路の報告から始まり、結婚式の写真。生まれたての赤ちゃんの写真、その子供の七五三、入学式と、その時々の写真を添えて年賀状の報告は続いていく。
 今年は、高校時代の友人が大学卒業以来ずっと勤めていた会社を辞めて転職したことや、高校の部活動の顧問だった先生が遠い第3世界の国でNGO活動をしていたことを初めて知った。子育てをしながらパートを始めた後輩や、やはり子育ての傍ら事務の仕事をやっているという大学時代の知人の年賀状もあった。



 僕に年賀状をくれる人達の多くは、過去に教室や部活動、演劇活動等を通して僕と多くの時間を共有し、また共通の目的や方向性をもって一緒に活動した時期があった。その時期が終わり、それぞれ別々の場所でそれぞれの日常を生き始めてからも既にそれなりの年月が経過し、さらに変化の時期を迎えているのだろう。いや、それぞれの日々の生活の中にも少しずつ変化の兆候はあり、その積み重ねが年賀状の短い文章に凝縮されているという方がおそらく正しい。
 あの頃すぐ近くにいた人達が、物理的にも隔てられ、これだけ違った方向で人生を歩んでいるというのは、何だか不思議な感じがする。けれど、考えてみれば、これだけ違う方向に人生が進んでいく人達が、日々の時間かなりの部分をともに過ごし、同じ悩みや喜びを分かち合いながら日常を共有している「学校」のような場所こそ不思議な空間なのだ。それはある活動を複数の人間が共同で行うある種の集団についても言えるだろう。会社にしても、定年後や途中退職後の人生は、人によって驚く程違ってくることは言うまでもない。



 そしてこれは、逆の立場、すなわち相手から見た僕についても言えるだろう。「季節が君だけを変える」という歌があった気がするが、そうではない。季節は自分も変えているのだ。ただそれが自分には見えにくいだけである。だから、「あの頃」の自分がもし今の自分を見たならば、きっと同じように不思議な気持ちになるのではないかと思う。



 人と人が出会うこと、そしてその人達が同じ場所で同じ時間を共有することの不思議さ。そして、その場所を離れたときにその人達が選択する新しい日常の多様性の不思議さ。それを考えるとき、今この場所で、時間と活動の方向性を共有する人達、またこれからそうなるであろう人達の存在の大切さ、その時間と場所のかけがえのなさが逆に実感されてくる。
 そして、出会い、時間の共有、そして別れを繰り返す人の一生という営みの重さと深さを思うと、ある種の感慨が湧いてくる。



 僕は今年、年賀状をくれた人達の何人かと実際に会ってみるつもりである。もしかするとその時、全く違ってしまった人生の方向性の中に、あの頃共有していた時間の痕跡を発見できるかも知れない。その人と自分、またあの頃と今の違いと共通性。それを僕は一つ一つ確認したい。それこそが人が生きていくということそのものなのである。



そして、明日から僕の慌ただしい日常がまた始まる。


hajime |MAILHomePage

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