思考過多の記録
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キリスト教と何の関係もない大多数の日本人にとって、クリスマスは単なるイベントであり、忙しい日常の中のひとつの区切りである。またそれは一種の祝祭でもある。まるで正月の到来を待ちわびる門松のように、街の至る所に数ヶ月前からクリスマスツリーが林立し、イルミネーションが瞬く。 本来の意味はすっかり忘れられ、人々はキリストの誕生を祝福するよりも、恋人や我が子へのプレゼントを選ぶことに心を奪われる。
確かにこの光景は、バレンタインデーと同じように、商売の目が利くどこかの誰かの発明品ではある。ケーキや玩具、その他諸々、この時とばかりに売り場に溢れてくる。それはこの祝祭がなければ、少なくともこれだけ多くの人がこぞってある期間に集中して買ったりしない物達だ。 けれど、毎年繰り返されるこの光景は、宗教のないこの国の住人にとってまがう事なき「祭り」なのだ。どんな形であれ、人は「祭り」なしには生きていけない。それは宗教上の‘祭祀’の形をとるかもしれないし、普段は別々の生活を送っている気の置けない仲間が集まって過ごす時間かもしれない。日常の秩序の中に押し込められ、それを維持することに汲々とせざるを得ない僕達を解放してくれる装置、それこそが「祭り」である。
クリスマスとは、輸入された外国の「祭り」が、日本人好みに姿を変えて定着したものなのだ。ウエディングドレスとタキシードにフランス料理のフルコースの結婚披露宴のようなものだろうか。それまでの日本にはなかったものだからこそ、またそれまでの日本の祭りとは肌合いも装いもまるで違ったからこそ、それはより非日常的な「祭り」として、日常からの開放感を僕達にもたらしてくれるものなのかもしれない。 そして、だからこそその「祭り」の輪に入れない人間の閉塞感と疎外感が募るというわけだ。
今年、テーブルの上のキャンドルの揺れる炎の向こう側に、その人はいた。その人と僕は決して愛を語らなかったけれど、グラスを傾けながら他愛もない話で盛り上がり、食事をともにしたその時間は、僕にとっては紛れもなく「祭り」そのものだった。 イルミネーションの灯る街角、僕と、そしてその人は、本当に何年ぶりかで「祭り」の中にいた。 それは、僕達にとっての「聖なる夜」だった。
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