思考過多の記録
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実家の近くの駅前通にあった家電量販店が、先週末を持って閉店した。2年ももたなかったような気がする。その小さな店舗用のビルには、その前には別の系列の量販店が入っていたが、それが閉店して暫く空き店舗になっていたところに、今の店が入っていたのだった。
家から近かったことから、僕の周りにはその店で買った物が結構ある。毎日のように使っているシェーバーや携帯のようなものからMDのような消耗品まで様々だ。別のどの店で買っても同じ大量生産された物ばかりなのだが、閉店が決まった途端に、何だかその店の「残像」のようなものがそれらの品物を通じて見えてくるように感じられてきた。 店のフロアの情景や、店員の表情、その時の自分の精神状態までもが朧気ながら思い出されてくるようだった。日常の「買い物」という何でもない出来事、そしてどこにでもある商品が、まるでかけがえのないものであるかのような不思議なオーラを放ち始めたのは、言うまでもなくその店がもはや存在しないという事実、すなわち「不在」という現象のなせる技であろう。
その昔、まだ僕が今よりもずっと自意識過剰だった時、そして今よりもある意味無邪気に恋ができた時、僕はその恋に失敗してばかりいた。僕にとって相手の女性はかけがえのない存在であり、彼女の不在は僕の生きる意味の喪失すら意味すると思えた。しかし、その彼女にとって、僕は殆どいてもいなくても変わらない存在だったのだ。 この存在感のあまりのアンバランスが僕を苦しめた。そして、いつでもひとつの同じ結論に達していた。
もし僕が彼女の中での僕の存在を、僕の中での彼女の存在と同じくらい重く、大きな物にしようと思えば、究極の方法は僕がこの世界から存在を消すことなのだ。僕の永遠の「不在」という事実が、彼女の中で限りなく小さく、また透明である僕の存在を一気に際だたせることになるだろう。たとえ一瞬でも、僕と彼女との存在感のアンバランスは解消する。逆に言えば、そうすること以外にこのアンバランスから解放される手段はない。 自分の命と引き替えに、僕は彼女の中で「不在」という存在感を得ることができるのだ。
客観的に考えれば、酷く独りよがりな論理である。けれど、その当時の僕にとってそれは動かし難い現実であるように思われた。何でもない商品がプレミアを獲得するには、その商品が二度と作られないという事実を必要とする。そしてそのことが、その商品に実際以上の価値を付与する。閉じられてしまったシャッターを前にして、人は横目で見ながら通り過ぎることの多かった店の賑わいを頭の中で再現する。その時、閉じられたシャッターの向こう側で、その人にとっての店が漸く存在し始める。
自分の存在を消すことでしか自分はその人の中で存在できない。おそらく誰にとっても、僕はその程度の存在だ。不在による存在というあまりに奇異で卑怯な論理を、だから僕はまだ完全に否定できないでいる。
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