思考過多の記録
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| 2002年11月11日(月) |
今はもう動かない、その時計 |
平井堅が歌う「大きな古時計」という歌が今年大ヒットした。ずいぶんと懐かしい歌である。初めてきいたのは、おそらく僕がまだ小学生の頃だっただろうか。それからも学校の歌集に入っていたりして歌ったり聞いたりする機会が何度かあった。そんなこともあって結構多くの人にはもうお馴染みの曲だと思い込んでいたのだ。それが何故今、いきなりブレイクしたのだろう。 これについては親しみやすいメロディや歌詞の世界、また平井堅の柔らかいヴォーカルの力等々、様々なことが語られているようだ。そのどれもがその通りだと思われるが、しかし何故それが所謂「癒し」や「安らぎ」を多くの人に与えることになっているのかは今ひとつ分からない。歌手の力量はともかく、これまでもずっと歌い継がれてきている曲である。今脚光を浴びるというのは、それなりに何か理由があるのではないだろうか。
僕の勝手な推論だが、その答えの鍵は、まさにこの歌の主人公・大きな古時計の存在なのではないか。この古時計はおじいさんの生まれた朝に家に来て、それ以来百年(元の詞では90年)にわたっておじいさんの人生を刻むかのように動き続けた。おじいさんの嬉しいことも悲しいことも全て見届けてきたという。そして、おじいさんの人生が終わると同時に、時計も動きを止める。 一人の男の人生をその傍らでずっと見守り続けてきたこの時計は、まさにこのおじいさんにとっては親友、というよりも殆ど分身に近い存在だったのだろう。
考えてみると、こういうものは今の僕達の側にはなかなか存在していない。移り変わりの激しい時代、テクノロジーの進歩が急ピッチで行われた時代、僕達の時計は振り子式の柱時計から電池で動く時計、デジタル時計…と様々に変化してきた。何よりも僕達の生活様式自体が変化し、そのスピードはいつしか時計が時を刻むリズムをはるかに超えるようにさえなっている。 僕達はこれまで、このスピードに乗り遅れまいとしながら、先へ先へと進むことだけを考えてきた。けれど今、僕達はそれに疲れ始めている。懸命に走っても走っても、薔薇色の世界に辿り着けるどころか、始めに目指していたものから遠ざかっているのではないか。そんな不安感と疲労感、倦怠感の中、あのメロディが聞こえてきたというわけだ。
おそらく人々は、自分自身の「大きな古時計」を求めているのだ。生まれてから死ぬまで、傍らでいつも変わらず自分を見つめ続けてくれるもの。同じリズムを刻みながら自分と同じ時代(とき)を歩み続けてくれるもの。そういうものがあるというだけで、人は安らぎを覚えるのだろう。 それはある意味でかけがえのない「友」であり、同時に「神」にも等しい存在なのである。 勿論、移り変わりの激しい現代を生きる僕達に、「大きな古時計」はない。「家族」も「ふるさと」も「祖国」も、勿論「規範」さえも僕達を見守り、気が付けば変わらずに存在し続けることはない。だからこそ、人はこの歌に「古き良き時代」への郷愁と憧れを覚えるのである。
僕自身はこの歌を聴くと、昔僕の家にあったゼンマイ仕掛けの振り子式の柱時計を必ず思い出す。カッチンカッチンと時を刻む振り子の音が、いつも甲高く狭い部屋に響き渡っていたものだ。ゼンマイ仕掛けなので、徐々に遅れ、時を告げる鐘の音までがスローテンポになってくるのがご愛敬だった。高度成長の始まりの頃とはいえ、今よりも時間はゆったりと流れていたからそんなことが許容されていたのだろうと思う。その家が人手に渡り、やがて取り壊された。そしてその時計も何度かの引っ越しの間にいつしか僕の家から姿を消した。 僕が死ぬよりずっと前に、その時計は役目を終えたと自覚して、自分から姿を消したのかも知れない。
繰り返すが、「大きな古時計」はもうない。歌の中ではおじいさんとのお別れの時を告げた古時計だが、古時計自体が僕達の前から消えたことは、ある幸福な時代が永遠に終わりを告げたことを僕達に教えてくれている。 そう、時計の針は決して逆戻りしない。
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