思考過多の記録
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| 2002年10月13日(日) |
狙わずに手に入れた栄光 |
先週は、立て続けに2人の日本人がノーベル賞を取った。突然そんなことになったのだが、実はノーベル賞ものの研究をしている人は世界中に結構いて、研究や活動の中身もさることながら、どれだけ宣伝や働きかけをしたかによって受賞するかどうかが決まるという側面も強いという。 そういえば、ノーベル平和賞はアメリカのカーター元大統領が受賞したわけだが、勿論平和のために貢献した個人や団体は彼の他にも数多存在する。それにもかかわらずカーター元大統領が受賞したわけは、イラクに対する単独の武力行使が規定の方針になりつつある現ブッシュ政権に対する批判の意味があると、当のノーベル賞委員会が言っているくらいだ。 それ程、ノーベル賞自体の選考基準は「政治的」であるということだ。まあ、人間がやっている以上、これはやむを得ないことではある。
今回俄然注目されているのは、ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんという人である。民間会社の研究所にいて、普通に研究していた博士も修士も持たない人が、特に大がかりな売り込みも働きかけもせずに受賞したということで、一躍脚光を浴びることになったのだが、田中氏および夫人の何ともマスコミ慣れしていない初々しい態度が新鮮だった。 彼はしきりに自分が「裏方」であることを強調していたが、確かに今回の彼のケースは、華々しくスターが活躍するステージを支えるために見えないところで活躍する大道具さんか音響さん、照明さんのようなスタッフに、突然スポットライトが当てられてしまったようなものである。
そんな事情からも分かる通り、彼は所謂学術研究者とは異なり、最初から研究成果を挙げてそれを世に広め、名を残したいというような野心を持っていたわけではなかった。「学問の発展」や「人類の進歩への貢献」といった大きな目標を全く意識せず、せいぜい将来の自社の製品開発に寄与するためというごく普通の会社人としての目的意識から、ひたすらこつこつ地味な作業を積み重ねてきたのであった。 つまり、彼は決して「狙って」いたわけではなかったのである。彼が記者会見に作業服で現れたことは象徴的であったし、もう一人の受賞者である小柴東大名誉教授が婦人に「今年は(賞を)もらえそうだ」と漏らしていたのと対照的である。
その翌日、あるテレビ番組でスピッツの草野氏がインタビューを受けていた。アマチュア時代を語っていた彼は、自分達がバンドで食べていけるという見通しは全くなかったと語っていた。スピッツというバンド名の由来にしても、「キャンキャン吠えるけど、所詮は臑齧り」という自嘲に基づいたものであったというのだ。実際、最初のレコード(なんと、ソノシート!)は全く売れず、名刺代わりに配っていたという。 彼等もまた、「狙って」はいなかった。しかし、彼等の音楽は認められ、今では押しも押されもせぬメジャーバンドとなっている。また、草野自身はソングライターとしても活躍中だ。
狙っていないのに栄光を手にする人がいる反面、狙っていても結果が出せずに、一生スポットライトを浴びる場所に出ることなく終わっていく多くの人達がいる。そういう人達にとって、田中氏やスピッツは果たして「希望の星」たり得るのだろうか。 彼等にあって、その他の人達にないものは何なのだろう。タイミングなのか、やっていることの中身なのか。それとも、「運」というやつなのか。 僕より年下の人間が次々に演劇や脚本で活躍し、脚光を浴びているのを見るにつけ、僕はそのことを考えてしまう。彼等にできて、自分にできなかったこととは何なのか。 田中氏が言うように、意識的に成功を狙うのではなく、ただ真面目にこつこつと自分のやることをやっていれば、いつかは報われるのだろうか。しかし、「意識しないように」と思えば思う程、逆に意識してしまう。そして、意識せずにやっていて、本当に何事もなく終わっていく人達が大多数であるのもまた現実だ。
無欲に、無心になるのは難しい。何かをやる以上、達成感を味わい、他人から認められたいという欲望から、人はなかなか自由になれない。いつの間にか目的と結果が逆転し、認められるために何かをすることになるのもしばしばだ。しかし、それも結果が出れば許される話であるし、結果が出なかったとしても、それを非難できるような聖人君子はそうそういるものでもあるまい。 「人に認められることが大切なのではない。問題は何をしたのかだ。」などときれいに締めるつもりはない。僕はそこまで大人にはなれない。
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