思考過多の記録
DiaryINDEXpastwill


2002年10月05日(土) 「病」というレッテル

 僕の体の僕に対する反乱、もしくは僕の体に対する僕の反乱は、ここ1週間で漸く一息ついたようだ。先週半ばから会社にも復帰し、これまで通りの生活を送っている。
 実家の近くの少し大きめの病院で、簡単な検査(胸部X線と血液検査)を実施したが、取り立てて異常は発見されなかった。つまり、他の原因による病気である可能性はないということだ。実際のところは分からないが、やはり神経からきた異常だったのだろう。不眠に関しては、寝る前に誘眠作用があるといわれるカモミールのお茶を飲むことにしている。実際に、寝付き、眠りの深さともに改善された。ハーブ系は侮れない。



 「自律神経失調症」をネットで調べていたら、ある簡単な検査法に行き当たった。それは、この病気が軽い鬱状態といわば「地続き」であることから、あくまでも補助的な手段であると断りながら、精神の状態を自己診断して早めの発見につなげようという目的からつくられたものである。質問項目に「しばしば」「時々」などの頻度を示す選択肢で答えていき、あとでポイント数を計算して、それぞれにあてはまる精神状態を知るというわけだ。よくある「○○占い」のようなやつだが、「ツングの鬱病尺度」という、一応それなりの信憑性のある方法だと紹介さえていた。



 その項目を見てみると、「気分が沈んで憂鬱だ」とか、「夜よく眠れない」などというのはまあ分かる。しかし、「気持ちはいつもさっぱりしている」「将来に希望(楽しみ)がある」「迷わず物事を決めることができる」「役に立つ人間だと思う」「今の生活は充実していると思う」「自分が死んだ方が、他の人は楽に暮らせると思う」といった項目には、首を傾げざるを得ない。
 自慢ではないが、今の僕は気持ちはさっぱりしていないし、優柔不断である。将来に大して希望を持てないし、役に立つ人間だとも思っていない。今の生活は充実しているとは思えないし、確かに自分が死んだ方が周りにとってはいいのかな、とも思える。これらのことをしばしばそう思える程鬱病的な傾向が強いということらしいのだが、では鬱病的ではない、「普通の」人間の精神状態はどういうことになっているのだろうか。



 気分は常に明るく、将来に希望(または楽しみ)があり、今の生活は充実していると思える。そして、自分は有用な人間だと確信している…
 ちょっと前の「脳内革命」をはじめ、巷に溢れる「人生ハウツー本」にありがちな理想の人間像である。しかし、僕はこういう考え方に対して強い違和感を覚える。何事も前向きにとらえ、失敗もバネにして日々を明るく生きていく。これはアングロサクソン的、すなわち、アメリカ型資本主義の弱肉強食的な社会を生き抜いていくための理想の人間像に他ならない。自己責任と自己の才覚が全ての社会では、頼れるものは自分だけである。自分がいかに前向きで有用(有能)な人間かを常に他人に売り込んでいかなければ生き残れない。となると、自分に対しても常に「暗示」をかけていなければならなくなるのだ。かくして、ハウツー本は売れる。
 そして、こうした「前向き」の思考ができない人間に対して、競争重視の社会の「敗者」として「鬱」というレッテルが貼られることになる。それを避けるために、脳内の物質の量を調整することで「前向き」になれる薬物が、ドラッグストアで普通に売られていたりする。



 全てがそうだとは言わないが、「病」とは「普通=正常」な状態からみて「異常」と思われるものに対して貼り付けられるある種のレッテルだ。「狂気の歴史」という本があったように、「病」は最初からあったわけではなく、「正常」な状態を認識したときに「病」という概念が歴史的に見出されたのだ。そして、一度確立した「病」は「治療」の対象になる。
 この意味では、確かに「鬱」は「病」であろう。けれど、「前向き」であることが「正常」であり、誰もが皆「前向き」にならなければならないというものなのだろうか。人はいつも不確実な「希望」にすがって生きることなどできない。多くの人は、「前向き」と「鬱」の状態を日々、いや1日のうちでも時間や状況によって目まぐるしく行き来しながら生きているものではないのだろうか。悲しみに打ちひしがれたり、挫折感に苛まれて立ち直れないと思えることは、決して「病」でも「敗者の思考」でもない。ましてや治療や矯正の対象ではない筈だ。
 それは人間としてごく自然なことである。むしろ、弱肉強食の社会を生き抜いていくために、常に「前向き」、積極的、強気のテンションを維持し続けなければならないことの方がある意味で「不健康」であり、それを強いられる社会は「病んでいる」とも言えるのではないだろうか。
 社会やその構成員がどんな状態を「病」と見るかによって、その社会および構成員が抑圧している「闇」の部分が透けて見えるということである。



 僕のように、常にくよくよ考えて、こうして「後ろ向き」の屁理屈をこねる人間も、その反対に常に明るく前向きで積極的にバリバリ生きる人間も、ともに周囲にとってはうざい存在であることにかわりはあるまい。
 因みに、先の診断法によれば、僕は中程度の抑鬱状態(その診断法の基準では最も高いもの)だそうである。さもありなん、という感じだ。僕は人よりも不確実な「希望」を抱いて生きられない傾向が強いのだろう。きっとこの社会では生き残っていくことはできないと思う。
 こうした話を人にすると、決まって「もっと自分に自信を持ったら?」と励まされる。それはとても有り難いことだが、もしその人が言うとおり、僕の自己評価が現実よりも不当に低いものだとすれば、それは「アダルトチルドレン」の特徴と一致する。勿論、僕はアダルトチルドレンではない。
 「病」のレッテルは至る所に転がっていて、医師やカウンセラー達によって今も次々に発見され、誰かに貼り付けられている。


hajime |MAILHomePage

My追加