思考過多の記録
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世間の耳目は、今日1日「歴史的な」日朝首脳会談に集まっていたようである。微熱と薬で浮かされた頭で、僕もついついテレビの画面に見入っていた。平壌の空港に政府専用機が到着し、厳しい表情の小泉‘ライオンハート’首相が降りたって、大きなリムジンで会談場所に消えていくところから、いつもの作業服のような出で立ちで金正日主席が握手を求めるところ、会談を始める前のがらんとしたテーブルで、金主席が小泉首相に向かってやや硬い表情で歓迎の言葉を述べることろ、会談を終わった両首脳が「平壌宣言」に署名するところ、そして、夜の総理の記者会見。そしてまた、その間に挟まれる、拉致被害者の家族達の会見。 会談の結果は、何から何まで僕の予想を遙かに超えていた。
この会談の中身や歴史的・現実的意義については多くのマスコミが今の瞬間にも数々の論評を流しているし、明日以降も多くの文章やコメントが発表され続けるだろう。僕が今日見ていて、というよりも、首脳会談が決まってからこの方ずっと気になっていたのは、拉致被害者の家族の人達の言動である。ことに今日、ほぼ全員の安否が明らかになり、生存者よりも死亡した人の方が多くいたという事実が伝わってからの彼等の反応については、是非一言言っておかねばならないと考えている。反発を覚悟で書かせてもらうが、はっきり言ってこれは彼等と同じ国に暮らす者としての、彼等に対しての批判、ないしは違和感の表明である。
北朝鮮のとった行動は、確かに許し難い。一国の機関が組織的に他国の国民を拉致し、あまつさえその命を奪うなどということは、正当化の使用もない蛮行である。どれだけ批判されても仕方がないだろう。また、これまで二十数年間にわたって安否を気遣い、生きて再会できる日だけを楽しみに過ごしてきた家族にとっては、肉親が他国でどうすることもできないまま殺されていたなどという事実を前にしては、言葉に表せない思いに打ちひしがれるに違いない。これほど理不尽なことはない、と怒りを抑えられないのは、人間として当然ではある。 しかし、この誰にも異論の挟みようのない、絶対的に正しい「怒り」を垂れ流すテレビ画面を見ながら、僕はどうしようもない違和感をおぼえてしまったのだ。それはまさに、彼等の「怒り」が反論を許さない程の絶対的な「正しさ」を無条件に与えられていることに対しての違和感だった。
彼等の絶対的に「正しい」怒りをもって主張されていることの中身を冷静に分析してみると、そこにはこれまで何も行動をとってこなかった我が国の政治家や政府に対する怒り(それは、彼等にとっては「国家不在」という言葉に置き換えられるような感覚である)にくわえて、こんな犯罪を犯した北朝鮮という国家に対しては、過去の償い(=補償)も、国交正常化さえも必要ないとするような、あからさまな「嫌朝」とでもいうべき考え方である。 そうなる気持ちは十分に分かる。だがしかし、僕が危惧するのは、彼等の多くが所謂戦前の「朝鮮蔑視」の教育・価値観の中で育ってきた世代であり、そのことが今回の一件で形を変えて表に出てきているきらいがあるということだ。彼等の中では、いつの間にか「日本(国)」が「朝鮮」に被害を受けた話になっているようなのだ。彼等の会見の中に「国家」「日本の国」という言葉が頻繁に出てくることが、このことを裏付けているように思われる。
北朝鮮の弁護をするつもりは毛頭ないが、彼等は過去の過ちを一応認め、一定の情報を開示した。それが彼等の外交上の必要性に迫られたものであっても、拉致の事実を認めたことは大きな変化であり、前進だといっていいと思う。全員が生きていなかったからという理由で、「それは前進ではない。したがって、国交正常化交渉をするべきではない」とする彼等の主張は、感情的には理解できるが、長い目と広い視点から見た時にはむしろこの国と極東アジア地域の安定にはつながらない。 感情論で北朝鮮を悪者扱いし、彼等を排除しようとするだけでは、何も解決しないどころか、むしろあの国を政治的に追いつめることになる。そうなれば、それこそ何をしでかすか分からない。評価すべきは評価し、事実関係の解明や責任の追及、家族に対する謝罪と補償などは今後の交渉に委ねるのが「外交」というものであろう。
拉致被害者の家族達の震える声や涙を見ていると、僕はあの世界貿易センタービルの被害者達と、その背後の「アメリカ国民」を思い出してしまう。彼等の怒りはあまりにも「正しい」ので、誰も反論ができない。9.11の場合、その「正しい」怒りの延長線上に「報復」という名の対テロ戦争があったのである。 感情が「激情」の類である時は特に、多くの場合それが絶対的に「正しい」ということはない。今度の事件の場合、あの家族達が「正しい」怒りとともにまき散らし、テレビのコメンテーター達が煽った「嫌朝」、すなわち(北)朝鮮敵視の感情が、メディアを通じてこの国の人々に浸透し、何事かが起きる土壌を形成するのではないかと、僕は強い危惧を持っている。それでなくてもまだまだ朝鮮人に対する蔑視が抜けない僕達日本人のそのいわれのない偏見に、彼等の「正しい」怒りが「正当」な理由を与えることになりはしないだろうか。その結果、またしても朝鮮人と日本人が互いに憎み合うようなことになってしまうのではないか。
たとえそうなっても、それはあの国の蛮行が招いた当然の結果だと、あの家族達は言うのだろう。成る程、肉親を奪われた彼等の「正しさ」の前に、僕の反論は全く無力になる。 では、あの国から第2次大戦の前後にこの国に強制的に連行され、過酷な労働に従事させられたり、従軍慰安婦として働かされ、命を落とした肉親を持つあの国の人達の「正しい」怒りに対して、彼等は、そして僕達はどう反論するというのだろうか。
僕はあの家族達を批判してきた。しかし、彼等の背後に「拉致議連」と呼ばれる、この問題を北朝鮮(共産主義)排除とナショナリズムの高揚に利用しようとする国会議員達がいることを見落としてはならないだろう。
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