思考過多の記録
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| 2002年09月12日(木) |
9.11〜世界は変わってはいない |
9.11から1年が経過し、どこのマスメディアでも特集を組んでいる。あの日、僕もこの日記で「海の向こうで戦争が始まる」と題した文章を書いて、「世界は変わってしまった」というようなことを書いたと思う。マスコミの論調も、事件の直後も今も変わらずそれと同じニュアンスのフレーズを繰り返す。けれど、1年たって思うことは、果たして本当にそうなのか?ということだ。
あの時、僕もテロリスト達の派手な手口に目を奪われてそう感じてしまったのだが、考えてみればあの種のテロ攻撃は、これまでも地球上のあちこちで何度も何度も繰り返されれてきた。時にはアメリカ自身がテロを仕掛ける側に回ってもいたのだ。ただ、その規模と方法、そして他ならぬアメリカの中心部を直接ねらったということにおいて突出していたというだけのことだ。そう考えると、あの時のアメリカのヒステリックな反応は些か度を超していて、それにつられてアメリカ以外の国々に住む人々も、何かこれまで経験もしたことのない黙示録をリアルタイムで体験したかのような錯覚に陥っていただけなのだともいえる。 事実、あの後、「テロとの戦い第1幕」と勝手にアメリカ自身が名付けた「戦争」によって、アルカイダとはおそらく直接関係ないだろうと思われる無垢の市民がアフガニスタンで殺された。勿論その時も、かの地の人々は嘆き、悲しみ、運命を呪った訳なのだが、それとアメリカの同時多発テロとは本質において同じといってよく、それが9.11程世界中に衝撃を与えず、広く「同情」をひかなかったのは、ただただそこがアメリカではなかったからなのである。もし誤爆によって多くの犠牲を払ったあの国が、アメリカに対して報復を宣言したとしたら、それは即座に国際社会からの非難を浴び、政治的にも軍事的にも葬り去られたであろう。 アメリカが「テロ組織を支援している」という理由で、国連の支持なしにアフガンに対して行った軍事作戦が「報復」として国際社会から認められたのは、ただそれがアメリカによって行われたからに過ぎない。そして、このような一人勝手が許されてしまうのは、その国がアメリカだからなのである。もし中国が、テロ以降のアメリカと同じような行動をとったらどうなるかを考えてみれば、僕の主張はあながち的はずれではないことは分かってもらえると思う。
9.11の前と後で、世界は変わりはしなかった。暴力と、嘆きと、憎悪はあの日の前にも後にも存在し続けている。もし何か変わったことがあったとしたら、逆上した超大国が力によって「敵」を叩き潰すという、まるで19世紀のような図式が再現され、これに気をよくした超大国が、そのほかの場面でも、「力」を背景に国際秩序を無視して手前勝手に振る舞う姿が頻繁に見られるようになったということだろうか。 あの国は「悪の枢軸」といくつかの国を名指しで批判する。けれど、僕に言わせれば、今やあの国こそが世界の「癌」である。少なくとも彼等は、世界の少なからぬ国々の少なからぬ人々から、あの事件の後も自分達が嫌われ続けているということに対して、もう少し敏感になった方がよいのではないか。
世界貿易センターの跡地で涙に暮れる事件の犠牲者の遺族達の映像を見ても、どうにも同情の気持ちが湧いてこないのは、あの事件の後、彼等の国がとった行動に対して全く賛同できないからである。同胞の犠牲に対する悲しみと報復の成功の高揚感に酔いしれる暇に、自分たちの国の軍隊によって殺された世界中の多くの人々に対して思いをいたしてはどうだろうか。 それこそが本当の意味でテロの犠牲者達の死を無駄にしない方向に世界を導くと思うのだ。
大統領は、多くの人々の懸念をよそに、新たな戦争の開始を宣言した。彼と彼の政府は、まだ自分達利益のためにあの事件を利用しようとしている。それが許されるのは、彼等の政府がアメリカ政府だからである。 そう、世界はあの事件の後も、呆れる程変わってはいない。
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