思考過多の記録
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2002年09月08日(日) 絶大なる信頼

 宇多田ヒカルが結婚するという発表があった。相手はこれまでCDのジャケットやプロモーションビデオを手がけてきた写真家・映像ディレクターだという。映画監督や劇団の演出家と主演女優がくっつくのと構図としては同じだ。すなわち、素材と表現者の関係である。
 結婚に際してヒッキーが出したコメントには、
「互いに絶大なる信頼を置いて今回の決定に至りました」
という趣旨の言葉が入っていると報じられている。
 一方、件の写真家のコメントの中には、
「自分が本当に守りたい人だと思った。」「これからはより力を得て仕事ができる」
という内容の言葉があるという。



 確かに、表現者と素材になる人とが互いに信頼し合っていないと、いい表現はできない。そして、お互いがより深く知り合えば合う程、表現としても深くなっていくだろう。やがて、表現の「素材」としてのその人と、その人本人との境目がなくなっていく。「素材」としての良さを引き出すことが、その人本人の良さを発掘する作業に変わっていくのだ。その過程で、両者の間にある種の「共犯関係」から派生した「絆」めいたものが形作られていくのだろう。
 ヒッキーと写真家との間でそうした関係が醸成されていき、それが「恋愛」に形を変えていったことは想像に難くない。むしろそれは、ありふれた構図である。



 どんな形にせよ、お互いの間に「絶大なる信頼」が生まれるというのは羨ましい限りである。自慢ではないが、未だかつて他人から「絶大なる信頼」を寄せられたことはない(本当に自慢ではない)。僕が演出・主宰として芝居を仕切った時も、周囲は決して僕を全面的に信頼してはいなかったと思う。そうするには、僕はとても危なっかしく、また頼りなく見えていただろうし、事実そうであった。そして、本当の演出家や主宰はそう思っていることを暴露してはいけないのだが、ここにこんなことを書いてしまうこと自体、信頼を寄せられるに足る存在だとはとても言えないことの証左となってしまう。
 勿論、ことは芝居の現場だけに限らない。日常においても然りである。いや、むしろ日常の方がずっとこの傾向が強いかも知れない。



 一方、僕にも本気で守りたい人はいた。けれど、その人はまさに今述べたような存在である僕に「絶大なる信頼」を置きはしなかった。この人に自分が守れる筈はないと、おそらく彼女は直感で分かっていた。そして、彼女は別の男を選んだのだった。
 実際のところ、僕に彼女が守れたのかどうかは大いに疑問である。しかし、問題は彼女に信頼を寄せてもらえなかった自分である。この人なら大丈夫、と相手に思わせるものは何か?僕に欠けているものはそれだ。
 それを手にするまで、僕はありふれた構図にすら持ち込めない。


hajime |MAILHomePage

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