思考過多の記録
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2002年09月01日(日) 履歴書の空白

 先日、ある事情があって、と隠す程のことでもないので有り体に書くけれど、「見合いの前段階」の話があって、久し振りに履歴書なるものを書いた。僕がこの前にこれを書いたのは今の会社に入社するときだから、かれこれ11年前になる。



 書いてみると、想像していたことではあったが、これがやけにすっきりとしているのだ。項目としては、学歴・職歴・資格・趣味といったあたりになるのだが、これが11年前と驚く程変わっていない。変わった所といえば、当然だが職歴ができたこと。それだって入社してからこのかた部署の異動すらしていないのだから1行で終わってしまう。普免以外はこれといった資格らしきものを全く持っていないのも、この11年間変わっていないところだ。



 我ながら何とつまらない履歴だろうと思う。この11年間というもの、僕は一体何をしてきたのだろうか。自分をグレードアップするために切磋琢磨し、その結果としての資格や履歴を得たわけでもなく、ただ漫然と過ごしてきてしまったかのようだ。
 さて、僕が書くより前に届いていた相手の女性の履歴書を見てみると、短大卒業後に職をいくつか経験し、退職から再就職の間にCGの専門学校に通い、現在も仕事をしながら資格のための学校に通っている。司書や秘書の資格も持っている。それらが全て身になったのかどうかは別にしても、いくつかのことに挑戦しながら精力的に自分を磨こうとしていたことは伝わってくる。そんな彼女なので、趣味も芸術系でいくつか持ち、聴く音楽はジャズであった。



 では、彼女が職を変えながらいろいろなことに挑戦していた頃、僕は一体何をやっていたのだろうか。仕事に追われながら、何とか芝居ができないものかと模索しつつ、それまでの仲間と別れ、知り合いの伝手を頼って小さな芝居を打ったりしていた。大学時代の友人から誘われて、役者としてCSのドラマ?に出演すること2回。後輩の紹介で、やはりCSの報道番組でナレーションの仕事をすること数回。また、いくつもの失恋を重ねた。
 けれど、そうしたことは当然ながら履歴書には現れてこない。例えば僕の脚本が何かの賞を得たり、また、テレビの仕事で定期的に収入を得られるようになったりしていれば、それは履歴書に書くことができるだろう。つまり、僕のしてきたことは、ことごとく世間的に認められていない、表立たない活動だ。この「思考過多の記録」も、ささやかな僕の能力を発揮する場所なのだが、ごくごく限られた人だけが相手だ。仕事の方でも、スキルアップを図ってアフターファイブに学校に通うなどという職業人らしいことはしていない。ただただ、日々することに追われてきただけである。



 履歴書に現れた僕は、平々凡々たる、何の面白みもない存在だった。趣味の欄に「演劇」と一言書けることくらいが、かろうじて他人との差別化を図れる部分だろう。とはいえ、その一言だけでは、とても僕という人間を表現することはできない。
 いや、そもそも取り立ててアピールするべきところなど、僕にはないのではないかとも思えてくる。履歴書の空白は、そのまま僕自身の空虚さの現れなのかもしれない。履歴書に現れない自分らしさ、自分の良さがあるなどというのは、きっと思い上がりの類なのだ。他人に説明できない良さなど、あってないようなものである。少なくとも、そんなものは就職や見合いには無力だ。



 履歴書の空白を評価できるのは、その人との関係性の中においてしかあり得ない。そこで初めて、履歴書の記載されていることの背景と併せて、僕達は相手の人間性を知ることができる。「人物本位」の採用が叫ばれるものそのためだ。
 そして、そこにおいてこそ、僕達は相手との「相性」を語ることができる。



 多くの履歴を書き連ねたその女性側からの連絡はまだない。おそらく履歴書の空白を僕という人間の空虚と読み替え、それを補って余りある外見とは程遠い写真を見せられて、興味を失ったのではないかと推測される。
 そして僕は、賑やかな経歴の持ち主であるその女性と何らかの関係性を持つ可能性を失った。


hajime |MAILHomePage

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