思考過多の記録
DiaryINDEXpastwill


2002年08月29日(木) 時を超える物語

 先日、ある知り合いに8年程前に僕が書き、仲間と上演した芝居の本番を収録したビデオを見てもらった。それは当時の演劇の主流だった「小劇場」の作劇法の文法に則って書かれ、同じくそれに則った演出と演技方法で作られたもので、現在ではやや手垢が付いて古びた感が否めないものだった。
 僕自身は今でも小劇場的手法への愛着は持っているのだが、流行遅れの服を着続けることがみっともないのと同じように、かつて主流であればある程陳腐化も激しいものだ。客商売である以上、アピールしないことをやり続けても仕方がない。そんなこともあって、前の集団を解散して以来、僕はその手法を封じ込めてきた。
 また、その後その当時の仲間といろいろあったこともあって、僕はその芝居のビデオを見なくなっていたのだ。



 けれど、映画は好きでも演劇事情にはさほど明るくない、現代の若者である彼女は、役者・スタッフワークのトータルの面でその芝居がいたく気に入ってしまったという。それは、彼女の中にある「芝居」のイメージ(それは所謂「新劇」のそれであったり、三谷幸喜的な何処か「ドラマ」っぽい芝居のそれであったりする)を覆すものだった。同時に、作者である僕が当時造形した主人公の女性(20代OLという設定)に、非常にリアリティを感じたといい、その当時のやり方であるメーキャップを覗いて、主人公とその物語は全く古びていないと言い切った。
「もし今、平々凡々と暮らしている同じくらいの女性が見たら、凄く伝わるし、訴えるものがあると思う。そういう人の感覚が生々しく描かれていると思う。」
そう彼女は言った。
 この主人公の存在が、ともすればお伽噺の焼き直しになってしまいそうなその芝居の物語を、ぐっと見る人達の世界(現実)に引き寄せている。これが彼女の分析であった。



 この芝居は、女性の側から見た恋愛の問題を全面に出していることもあって、上演当時から若い女性の評判がよかった。しかし、それから8年を経て、今この時代に当時と同じ世代の女性から評価されるとは予想もしていなかった。作者としてこれ程の喜びはない。
 創作活動を行う人間の多くが、時を超え、国境を越えてその作品が生き続けてくれることを願っている。大芸術家の多くが、存命中は不遇でありながら、その死後かなりたってからその作品が評価され、国を超えて多くの人々に愛されている。芸術家は死んでも、作品は生き続けることができたのだ。けれど、それは世界にあまた存在する芸術家のうちの、ほんの一握りの才能ある人の話だ。大多数の芸術家は、存命中は勿論のこと、その死後においても決して評価されることはない。それどころか、未来永劫、その人自身およびその人の作品の存在が、その人の半径数百メートルの範囲内でさえも知られることはないだろう。
 枯れてしまった花は、咲いていなかったも同然なのだ。
 と、これは僕が10年程前に作った戯曲中の言葉なのだが、おそらく当時この芝居の舞台に立った者でさえこの言葉の存在を忘れ去っているだろう。つまり、そういうことである。



 後世に残そうなどと下心をもって作品に挑んではならない。そんなことは自分が望んで叶う性質のものではないのだ。
 そして、だからこそ、こうして思いもかけず自分の紡ぎ出した物語やその作中人物が、高々数年とはいえ、時を超えて見知らぬ誰かの心にある種のインパクトを与えたことは、僕にとってはまるで天からの贈り物のように、何物にも代え難いことのように思われるのである。



 そんなこともあって、僕は近々、殆ど忘れ去っていたこの物語の続き、主人公の「その後」を、何らかの形で描きたいと思っている。それは、昔を懐かしむ気持ちからではない。知り合いの女性のおかげで、その主人公と自分との、当時とは違う接点に気付かされたからである。
 僕の中でも、時を超えてあの主人公が甦りつつある。



 この物語「私の国のアリス」は、僕と僕の仲間のこれまでの演劇活動をまとめたサイト

http://chiba.cool.ne.jp/fbi_kk/

に物語の概要や上演記録が載っている。ご用とお急ぎでない方は、一度覗いてみていただきたい。


hajime |MAILHomePage

My追加