思考過多の記録
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昨日NHKで放映されていた、太平洋戦争中の軍部の内部事情に関してのドキュメンタリー番組を見た。 台湾沖航空戦と名付けられたその戦いは、アメリカ軍の空母部隊を殲滅することが目的だった。しかし、それ以前の戦いで空母や戦艦の多くを失っていた日本軍は、海軍力によって作戦を遂行することは初めから不可能だった。やむなく海軍の作戦参謀は、航空力、すなわち戦闘機のみによって空母を含むアメリカの大艦隊を攻撃したのだった。その結果は、僕達の誰もが予想する通りである。日本側は多くの戦闘機と人命を失ったが、アメリカ側の被害は皆無と言ってよかった。 そして、それにもかかわらず、現場の「推測」によって「戦果」が作られ、(「火柱を確認」→「撃沈」)それが大本営発表という確定的な「情報」となった。そして、間違った「戦果」(「アメリカの空母部隊は壊滅!」)という情報に基づいてそれ以降の作戦が決定され、その結果日本軍は泥沼にはまっていく。それは、レイテ島等南方での玉砕を経て、東京大空襲・沖縄戦・広島・長崎につながっていくのだ。
正確な情報が伝えられ、それが分析されていれば失わなくてもすんだ筈の命が、こうして無駄に失われていった。勿論当時の技術的な問題もあっただろう。しかし、正確な情報よりも、自分達が望む幻の「戦果」をひねり出せる報告を求め、それを検証もせずに得々と発表していた当時の軍部の体質こそが、この事態を招いた元凶である。それはまた、陸軍対海軍という殆ど不毛の対立にも起因していた。海軍側にしてみれば、情報を検証した結果、戦果を小さく訂正しなければならないことになれば、「面子」に関わるというわけである。同様のことは陸軍側にもあったであろう。 本来は国民の生命と国土を守るために存在していた(実際は必ずしもそうではなく、「国体」という名の天皇中心の国家体制を守るのが第一目的だったのだが)筈の軍隊が、あろうことか自分達の組織の「面子」を守るために、真実をねじ曲げ、幻の「戦果」を競っていたのだ。これでアメリカとの戦争に勝とうというのは、どだい無理な話である。そのおかげで犠牲になった兵士達や一般国民こそいい面の皮である。 もっとも、当時の指導層に冷静に情報を分析する態度と能力があったら、そもそもアメリカとの開戦を決定したりはしなかっただろう。
現実から目を背け、嘘と虚勢を貫き通し、綻びが出ればその場その場で取り繕っていく。そんなことが長続きしないのはだれでも分かっている筈である。にもかかわらず、人は現実が自分の手に負えないとき、または現実と向き合うのがしんどいとき、この手法に逃げ込む。 しかし、その末路はたいていの場合悲惨なものだ。誤魔化し続ける期間が長くなればなる程、また現実との乖離が大きければ大きい程、傷口はどんどん広がっていくのだ。 自分にとってどんなに都合が悪いことでも、現実を認め、それに如何に対処すべきかを早い段階で考えることの方が、結局はよい結果をもたらすのである。
この話は日本軍のケースだったが、どうも大きな組織になればなる程、特にその運営に当たるトップクラスの人達はこの種の過ちを犯す傾向にあるように思える。組織を壊してはいけない、誤りを認めてはいけない、そういう防衛本能がそうさせるのだが、それがかえって組織を危うくする。そして、そのとばっちりを食うのは、いつも組織の平の構成員達やその周辺の弱い者達なのだ。
番組が終わって、他局のニュース番組にチャンネルを合わせると、牛肉の偽装買い取りおよび証拠隠滅事件で、日本ハムの経営陣が「お詫び」の記者会見を開いていた。子会社の不正から本体を守ろうとする彼等の言葉は、時代を超えても日本軍的体質は生きているのだということを雄弁に物語っていた。 これは、この国に特徴的な性質なのであろうか。
王様が裸である時、誰がその事実を告げられるだろう。 結局みんなが表向きは「王様」を守ろうとしながら、その実は自分自身を守ろうとしているにすぎないのである。そう、殆どの場合、責任者達は無責任である。そして、その結果に対する責任が問われないのもまた、この国の人々の長年の体質のようである。
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