思考過多の記録
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2002年08月12日(月) 時は流れて

 昨日、母方の祖父母の墓参りのために、強い日差しの中、両親と一緒に久し振りに車で40分ほどの霊園へと向かった。行きと帰りは別々の道を通ったのだが、そのどちらもかつて何度も走った道であった。また、その途中には、僕の高校・大学生時代のテリトリーだった懐かしい街があった。
 道路の両側の風景は、全く変わってしまったところもあれば、以前と変わらず懐かしいたたずまいを残している場所もある。また、あった筈の建物がなくなっていたり、新しくマンションが建っていたり、店が変わっていたりと、部分的に変化している場所も結構あった。



 自分の身の回りや生活圏は、当然のことながら常に目が届いている、だから、変化していく過程を見ることができる。しかし、自分の生活圏自体が変化し、その場所から自分の存在が消えてしまうと、自分の中でその場所の時間は止まる。自分が見ていた最後の風景のままで、その場所は変化を止める。
 けれど、現実の時間はどの場所でも同じように流れているのだ。僕がそこからいなくなった後も、あの街は変化を続けていた。そんな当然のことを僕達は大抵忘れている。



 僕の卒業した高校のすぐ近くに、僕が高校2年・3年と同じクラスだった女性が住んでいる。誕生日まで同じということで意気投合した彼女と僕は、その後の10年以上の多感な時期を「友達」として送った。男女の間に友情は成り立つかという古くて新しい命題があるけれど、僕と彼女はそれがあることを証明した例だといっていいだろう。
 けれど、そこには微妙に「愛情」の影も見え隠れしていた。そして、2人がその関係の形に名を付ける前に、彼女は「恋愛」を獲得し、結婚したのだった。



 その彼女は今や2児の母となり、僕達が青春を謳歌した高校からさほど離れていない場所で生活を営んでいる。懐かしいあの街は少しずつ姿を変えていく。その変化する街の風景の中に、彼女の家庭が存在している。その彼女の生活も、子供の成長とともに日々変化している。彼女自身が、僕の中で変化を止めた時から変化を続け、もしかするとあの頃とは全く別人のようになっているかも知れない。
 勿論、僕自身がそうであることも間違いない。



 街も人も、変わっていくことは誰にも止められない。
 初恋の人と何十年かぶりに再会してがっかり、というのはよくある話だ。
 懐かしい風景や人を自分の中に封じ込めたら、その後の現実を見て悲しい思いをするよりも、止まってしまった時間を思い出として大切に自分の中にしまっておくのが正しい処世術というやつなのだろうか。
 そんな感慨に浸っている間にも、風景も人も変わっていく。その現実から僕達は決して逃れることはできない。
 友達と語り合った店は取り壊され、更地になった後には高層の建物が建築される。たまに出入りしていたその隣の本屋は取り壊された。そして、そのまた隣の別の店では、今日も誰かが友達と語り合っている。



 そして僕は、いつの間にか変わっていくことに寂しさをおぼえる境涯に入りつつある。


hajime |MAILHomePage

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