思考過多の記録
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長野県の田中康夫知事が、脱ダム等の政策を巡って県議会と対立し、とうとう不信任案を突きつけられたという。今朝の僕某局の番組で飯島愛が「ぶっちゃけた話、何のことかよく分かってないんですよね」という、脳天気な芸能人にありがちの大ボケなコメントをしていたのだが、全国的には結構そういう人もいるかもしれない。 確かに、ことは長野県の県政の問題であり、別の県に住んでいる大多数の人々にとっては直接的には関係ない。しかし、ここには数々の重要な問題が含まれている。一括りに言ってしまえば、それはまさしく「政治とは何か」という問題なのだ。
不信任を突きつけた県議会側の言い分は、「脱ダムに象徴される田中県政は、破壊ばかりで建設的でない。公共工事をやめた結果県の経済が停滞し、県政それ自体の停滞を招いている。また、反対派を排除し、支持者の声ばかり聞いて政策を進めるやり方は、知事とし相応しくない」といったものだ。 けれども、今朝のテレビ番組で当の田中知事が出演して説明しているのを聞いていると、決して知事は「破壊」ばかりしているのではなく、教育・福祉・環境という分野の政策を打ち出し、実際に仕事を作り出し、予算をつけている。「脱ダム」はいわばシンボル的な政策であるが、これも実は国土交通省の政策の方向性と一致しており、世界的な潮流もまた然りである。対して、議会側は従来(旧来)の政策を述べるばかりで、ビジョンがなく、何ら建設的ではない。政策の違いというより、自分達を蔑ろにする手法に対する感情的な拒否感、そして、自分達の利権を守りたいという下劣な考えから、知事と対立しているとしか思えないのだった。
田中知事の政策のいちいちをここで説明することはできない。ただ、その理念はよく分かる。「脱ダム」に象徴されるのは、中央からの金(国民の、しかもその多くが都市部の人間が納めた税金)によって、ダムや「はこもの」を作ることによって経済を成り立たせるという「あなた任せ」の産業構造事態を変えようということなのだ。 ダムを一つ造れば、その工事費で一時土木業者と地方財政は潤うかもしれない。しかし、その工事が終われば収入は断たれる。そこで、ダムが造れる別の場所を探し、またダムを造る。道路にしても然りだ。こうして、日本中の特に地方部に、必要性が疑問視される鉄とコンクリートの固まりが次々と建設されることになるのだ。 こうしたものは自然に負担をかける。破壊された環境はそう簡単には元に戻らない。かくして、日本列島に無数の「傷跡」が残る。それは孫子の代にわたって影響を及ぼす。今日明日の収入を得るために、未来永劫取り返しのつかないことをしているのだ。しかも、国民の税金を使って。 笑ってしまうのは、こういうことを推進している張本人達が、「子供達にもっと郷土愛や愛国心を教えるべきだ」と声高に主張していることが往々にしてあることである。川をせき止め、山を切り崩し、森林を切り開いてダムを造ることと「郷土愛」とは、どこでどう結びついているのだろうか。
田中康夫知事は、まさにこうした現状に対して問題を提起したのだった。それは、「政治とは、誰のために行われるものなのか」という、あまりに当たり前な問題である。「洪水を防ぎ、県民の生命と財産を守るため」と県議会側が主張するダム建設は、建設地の地元の人達への世論調査でも「建設不要」が多数なのだ。それにもかかわらず、「ダムは必要」と強弁する県議会は、明らかに県民の声を代表していない。つまり、現在の県議会は本当に県民の代表なのか?という疑問符が付く。今回の騒動が明らかにしたのは、長野県政の停滞でも田中知事の強引で独り善がりな政治手法でもなく、県民以外の「誰か」のために存在している県議会の姿だった。彼等は派手に騒ぎ立てることで、そのことを全国に喧伝してしまったことになる。どこまでも間が抜けた人達である。
こんなくだらないことが起こらないような国に早くなってほしい。そのためには、「政治とは、誰のために行われるものなのか」ということについて正しい答えと実践ができない人達が当選できないようなシステムを確立する必要があるだろう。まずは僕達が、「政治」とはどこか遠いところで偉い人達が勝手にやっているものだという考えを捨てなければならない。 田中康夫は作家であり、政治に対しては素人だと今でも思っている人がいるだろう。けれど、彼こそ最も愚直なまでに「政治家」たらんとしている人のうちの一人だということが、これまでの彼の実践を見ているとよく分かるのである。
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