思考過多の記録
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「君のことを絶対に幸せにするよ」と男が言い、「この人となら絶対に幸せになれる」と女が思う。そうしてできた夫婦の殆どが、おそらく幸せではないだろう。「絶対に幸せにする」という公約を守れる男は少なく、「絶対に幸せになれる」という確信が実は単なる錯覚だった女は数知れない。
僕の会社の契約社員の女性が、先日結婚(入籍)した。酒席で話を聞いていると、相手の男性とは数年前にバイト先で知り合ったという。当初から男の方が彼女に入れあげ、アプローチをしていたようである。もともとおっとりしたタイプの彼女の方は、男に対して何も特別な方を抱かないまま、「何も考えていない」(彼女自身の言葉)状態で男とのペースにはまって、いつの間にか付き合いだしていたようなのだ。 男は当初から「結婚」を考えていたようだ。というより、付き合うこと=結婚への道、と決めていたようなのである。彼女が拒まなかったので、そのまま「入籍」へとことは淡々と進んでいった。 そして、彼女は「結婚」した。正式なプロポーズもされないままに。誰もが「新婚旅行」だと信じて疑わない入籍後のマレーシア旅行も、彼女に言わせれば「単なる‘旅行’で、甘くも何ともなかった」そうだ。
3年間の付き合いの中で、彼女はすっかり相手との「日常」に慣れ、「新婚」という‘ハレ’の状態とは既に無縁になっていた。「今が一番いい時だよ」と同じ職場の既婚者達は異口同音に言った。僕も彼女に「遠足は、行く前の晩が一番楽しい」とつい余計なことを言ったものだ。だが、どうやら彼女にとっては、そんな話はとっくに終わってしまっていたようだ。 勿論、彼との生活が嫌なわけではないだろう。そうだからこそ、成り行き任せとはいえ2人は夫婦になった。けれど、「ラブラブですよ」という言葉とは裏腹に、酒の力を借りて彼女の口から出てくるのは、相手に対しての細々とした不満が殆どだった。
僕の職場の既婚者達(主に女性)の口からは、酒の力など借りなくても相手に対しての不満は数限りなく出てくる。一緒に過ごす「日常」が長くなれば成る程、様々な質の問題が発生し、不満が蓄積されていく。そしてそれは、量的な不均衡はあるものの、夫婦の両者がお互いに抱いているものであることは周知の事実だ。「絶対に幸せにする」と思い、「幸せになれる」と思って「結婚」に踏み切った時には、高ぶる感情と理想化された相手の像、そして相手に「理想的な」自分しか見せないという無意識の「偽善」によって、お互いが半ば盲目の状態になっている。それが、夫婦としての共同生活の年月とともに、お互いの実像が徐々に明らかになり、「こんな筈ではなかった」「こんなだとは思わなかった」ということが度重なっていく、ということになる。そして、お互いが諦念を抱いたまま惰性で「制度」としての夫婦を続けるか、子供にはけ口を求めるか、不倫の末に崩壊する。それが大多数の「結婚」の末路である。これもまた周知の事実であろう。 であるならば、ときめきを失うのに十分すぎる程の長い付き合いの中でそういう問題の多くを検証し尽くした後に「結婚」するのがいいのか、それとも「理想的な相手」という盲目の中で、勢いで「結婚」に突入するのがいいのか、そもそも「結婚」それ自体を回避するべきなのか、考え始めるとなかなか難しいところだ。 そこには、「結婚」における幸せとは何なのかという、もう一段深い問いが隠されている。
中島みゆきに「結婚」という短い曲がある。小さな男の子がもっと小さな男の子に「僕はお前と結婚するぞ」と言った。しかし、それは「決闘」との言い間違いだった。この前段の後、次のような歌詞があって曲は終わる。
翌日 若い母親がオフィスでその話を披露した 若くない男の社員が呟いた 同じ場合もあると 結婚と決闘 結婚と決闘 まだ若い母親は話しやめてしまった
良くも悪くも、緊張感を失うと夫婦はだめになっていく。といって、お互いにリラックスできなくても夫婦はだめになっていく。「結婚」における幸せとは何なのだろう。
酒の力を借りて相手への不満を語った彼女は、その席でやはり酒の力を借りて、僕への思いを「告白」した。「でも結婚しちゃったんですけどね」と彼女は付け加えた。 彼女にとって僕はある種の「ときめき」の対象だった(らしい)。僕にしてみても、彼女をちょっといいなと思う気持ちがなかったわけではない。けれど、それだけでは次のステップへ移れないことも、彼女は無意識のうちに知っていたのだろう。 僕の隣で絡み続ける彼女を見ながら、もし結婚したら僕はこの人を幸せにできたのだろうかと、よった頭でぼんやりと考えていた。 そして昨日、彼女は契約期間を満了して退職し、僕と彼女の人生は別々の方向に分かれていったのだった。
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