思考過多の記録
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2002年05月29日(水) 単細胞生物達が棲息する世界

 「生きる力」を育むという目的のために、思い切り従来の教科の学習内容を絞り込んだ学習指導要領が施行されて間もなく2ヶ月。とある地方の片田舎にある小学校で、この教育の流れに抗するかのような実践を続けている教師がいる。



 新指導要領の問題点が指摘され、学力低下が懸念される中で、この教師の実践は全国的に注目されるようになった。彼は本を出版し、その活動はメディアでも取り上げられるようになった。僕の会社の上司がその教師の勤務校を訪問したところ、子供達はみな明るく元気な様子だったという。
 新聞の報道では、その教師の実践のおかげで、その学校の卒業生はいずれも(偏差値的に)高いレベルの学校に進学しているとのことだった。



 しかし、いいことばかりではない。この教師の教育方針が指導要領、すなわち文部科学省の方針と相容れないものであることから、彼に対して様々なプレッシャーがかけられているという実態があるのだ。
 彼の実践を支持、もしくは容認していた彼の学校の校長は他校に転勤となり、別の校長が赴任した。また、おそらく彼に協力的、または様々な形で彼を支援していた同僚の教師達も多くが異動させられたとのことだ。結果的に学校の雰囲気は変わり、彼はこれまでよりも自分のやり方を貫くことが難しくなっているであろうと推測される。
 言うまでもないことだが、こういうことは全て、彼および彼の教育活動を潰すための方策である。



 かつて、「日の丸」「君が代」の押し付けや管理教育が大きな問題になっていた頃、これに抵抗する組合所属の教員達の動きを潰すために、当時の文部省や教育委員会等がとった手法が、まさに今回と全く同じやり方だった。
 僕の母校のとある県立高校でも、組合潰しのために校長が赴任し、先生方の方針にことごとく口を出し、2年目からは人事異動の大鉈を振るって熱心な組合の先生方を次々に他校に転出させていった。これは全て僕の卒業後に盛んに行われたことで、学校に遊びに行き、先生や部活の後輩達から話を聞いたりしながら、自分の在学中とは学校の雰囲気事態が変わっていく(しかも、あまりよくない方向に)のを肌で感じていたものだ。



 イデオロギーの対立に子供達を巻き込むのは決して好ましいことではない。
 しかし、今回僕が知ったのは、所謂政治的な対立でも何でもない話だ。どんなに表面上の理由を取り繕おうとも、ただ文部科学省=「お上」の決めた方針に従っていないという、それだけが問題視されているのである。そこには、教育の主体である子供達にとってどんな教育が望ましいのかという一番重要な視点が欠落していると言わざるを得ない。
 しかも、これは「日の丸」「君が代」問題に代表される政治的な争いの場合と同じ構造である。何という単細胞的反応であろうか。
 文部科学省や教育委員会は、自分たちの教育方針が正しいと思うなら、その教師と正々堂々と、オープンな形で論議すればいいのである。内容はともかく、上が決めたことだからその方針に従ってやることだけが重要というお役所的発想で、いい教師が育ち、いい実践が行われると本気で思っているのだろうか。



 どうやら文部科学省やその下部組織に属する役人達(校長等も含む)にとって、子供はさして重要な存在ではないらしい。彼等の政府が子供の意見表明権の規定を含む「子供の権利条約」の批准を渋っているのも肯ける。
 いや、子供にいい教育環境を提供するという本来の仕事を忘れ、現場に自分達の言うことをきかせることに汲々とする彼等こそ、ある意味で非常に子供っぽいと言っていいだろう。
 こんな大人達が力を持つこの国の子供達は不幸だ。せめて彼等が、こうした大人達を反面教師にして乗り越えていくような「生きる力」を育んでほしいものである。


hajime |MAILHomePage

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