思考過多の記録
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目に青葉 山不如帰…というが、気が付くと本当にそんな季節になっている。特に天気のいい今日などは、目にしみるという表現が本当にぴったりくる程緑が鮮やかだ。 そんな中、昨日は家の裏の雑草取りをした。これまた目に眩しい程の緑の洪水だ。小1時間やっただけで、夥しい量の雑草が積み上げられた。
雑草の中に、これまた夥しい量のドクダミが混ざっている。 ドクダミは葉の形が美しく、花もどちらかというと楚々とした印象である。しかも、最近は健康によいということで、お茶にもなっている。にもかかわらず、そのポジションは未だに「雑草」のままだ。 その理由は、おそらくあの独特の強いにおいと、あまりにも逞しい生命力にあるのだろう。もしドクダミが普通の草花と同じように爽やかな香りを持ち、保護してあげないと雑草の餌食になりそうな程弱々しく、楚々とした雰囲気の花だったら、こんな扱いは受けていない筈である。 あの強いにおいと強い生命力のせいで、ドクダミはかなり損をしていると言っていいだろう。
「人間見た目ではない」とよく言われる。でも、そういっている本人が、はたして常に相手を見た目で判断していないかというと、それはかなり怪しいものだ。 「人間見た目ではない」という諫言は、人間が往々にして「見た目」に引きずられる場合があることの裏返しだ。たとえ面食いでないと自認する人でも、その人なりの「好ましい」外見という基準を自分の中に持っているものである。
確かに「外見」ではなく中身で勝負するのが原則だ。がしかし、ファッションセンスがその人の生き方やポリシーを表現していると見なされるのは、あながち的外れではない。要は、「技術」の問題である。また、同じタレントでも、売れていない頃とブレイクした後とでは殆ど別人に見える場合もある。それはスタイリストが変わったという事情の他に、多くの視線を集めることによる「自信」が内側からそのタレントを輝かせ、それが外見に出るという要素も強いと思う。
言ってみれば、自分を魅力的に見せる=「演出」する技術(テクニック)と、自分は魅力的だと信じられる「自信」(メンタル)とがかみ合えば、どんな人でもそれなりに魅力的になれる。「飾る」ことは悪いことのように言われる場合が多いが、着る物が着ている人を変えてしまうこともあるのだ。 せっかく持っている内面の素晴らしさを、外見が悪いばっかりに気付いてもらえないとしたら、こんなに勿体ないことはない。
世の中には、深く知ってみるといい人なのに、喋り方や振る舞い方、表情やファッション等で損をしている人が随分いる。そういう人達の中には、自分がどう見られているかが分かっていない人もいれば、分かっているけれどどうしていいのか分からない人もいる。また、分かっているけどそれは大した問題ではないと思っている人もいるだろう。 一つだけいえるのは、現代は物事のスピードが速く、かつより多くの情報を短時間で処理することを求められるようになってしまって、どうしても最初に入ってくる情報で全てを片付けがちになるということだ。長い時間をかけて物事の本質を見極めようとすることは、相当な能力と忍耐力を必要とされる。そしてそれは、現代を生きる人間にとってはあまり重要なことではないと見なされているのだ。
となると、ドクダミのようによく見ると結構綺麗で、実はいい成分も持っているということもなく、かといって溢れる生命力があるわけでもなく、しかも外見は全く他の者達を引きつけもしない僕は、一体どうすればいいのだろうか。 言うまでもないことだが、もしそんな植物(動物)があったら、その種はとっくの昔に絶滅しているであろう。
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