思考過多の記録
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学校5日制が始まって初めての土曜日だった先週、その日の子供達の過ごし方や地域や学校等の取り組みについて様々なメディアが報じていた。僕は子供を持っていないので実際のところはよく分からないのだが、報道を見る限りでは、案の定という事態が起こっているようだった。 本来は、家族との触れ合いや地域での様々な活動に参加したり、また体験学習等のために時間を使うべく設定された土曜休みの日に、多くの子供達が学校の補習授業や塾での「勉強」に時間を使ったというのだ。勿論、学習指導要領に縛られない私立の学校は通常の授業を行ったところが結構あったようである。
文科省の意図とは裏腹に、多くの子供達が通常の「勉強」を選んだ理由は、「学力低下」への懸念という至極単純な理由である。受験による選別が、事実上その先の就職や人生そのもののあり方さえも決定してしまう(と信じられていて、ある程度それが事実である)現在の社会システムのただ中にあって、ただでさえ私立との学力格差に対する不安があったところを、今回の新指導要領による3割削減である。与えられたカリキュラムだけで「学力」がつくとは到底思えない。と言うよりも、「受験」をはじめとするこの社会のシステムの中で生き残っていくための「学力」がつく筈はない。多くの親や子供がそう考えたとしても、何ら不思議ではないだろう。 かくして、塾や私立への需要は高まる。公立学校といえども、こうした全体の状況や親からの要請を無視するわけにはいかなくなる。そこで、文科省の意図とは違ったメニュー(補修や発展的な学習の授業等)を用意することになる。学習指導要領の枠組みを愚直に守り抜こうとする学校は、少なくとも都市部では白眼視されるだろう。また、塾や家庭教師を付けるなどの手立てを何ら講じない親は変わり者扱いされるかも知れない。
「囚人のジレンマ」という、ある筋では有名な話がある。2人組の犯罪者が逮捕され、別々に取り調べられている。2人が連絡を取り合うことは不可能だ。犯罪の証拠は何もない。自白さえしなければ犯人達は無罪放免である。取調官は犯人達に(勿論別々に)告げる。もしどちらかの自白によって犯罪が立証された場合、自白しなかった方には懲役10年が科せられる。一方、先に自白した者の懲役は5年に減免される、と。 この場合、犯罪者には2つの選択肢がある。絶対に口を割らないか、自白してしまうかだ。ただし、前者の場合、自分ではない犯人も否認を貫いてくれれば2人とも晴れて自由の身だが、もし相手が自白してしまった場合、自分は10年の懲役に服さなければならない(相手は5年だ)。一方後者の場合は、相手より先に自分が自白してしまえば、自分は5年の刑で済む(相手は10年だ)。同時ならば2人とも10年の刑になる。 この場合、ポイントは犯人2人の間の信頼関係の強さである。それがかなり強固なものであれば、2人とも助かる可能性は高い。しかし、お互いに自分が助かることだけを考えれば、相手よりも先に自白したいという衝動に駆られるだろう。そして、おそらく多くの場合、人は後者の道を選ぶだろう。
かつて就職協定というものが存在していた時代、それを守っていた企業はおそらく皆無であっただろう。活動が解禁になってから動いたのでは、いい人材を確保することはできない。そして就職氷河期が続く今、学生の側の就職活動の時期はどんどん前倒しになっていく。4年生になった時点では、既に終わっているという状況かも知れない。とにかく他人に後れをとることが致命的となる。
ルールを破って他人を出し抜いた者が得をする仕組みが、この社会のあちこちにできあがっている。正直者が馬鹿を見る時代は、何も昨日や今日始まったわけではない。昨今のアメリカ型弱肉強食の競争社会を賛美する風潮がこれに拍車をかけている。 自分のことだけを考え、自分だけが生き残ることを第一目標に、僅かなチャンスを他人にさらわれないようにと鵜の目鷹の目で周囲を伺い、それがどんなに非難されるような方法であっても、自分の目的を達するためには躊躇なくそれを実行する。それが、生きていくためにはむしろ当たり前のやり方なのだと、全てのことが教えている。
社会的に弱い立場、低い地位にある人々(=「普通」の人々)が、強い者が支配するこの世の中を生き抜くためには、この種の狡辛さはなくてはならないものだ。そう信じられている。 本当はそうではないのかも知れない。「囚人のジレンマ」の犯罪者達は、連帯すれば囚人にならなくて済んだのだ。弱い者が力を合わせれば、強い者の支配を揺るがすことは不可能ではない。文科省は、学力の中身を変えることで、これまでの教育の方向性や方法論が必ずしも正しくはなく、僕達を幸福にしなかったのではなかったかと問おうとしたのだろう。けれど、この国の多くの人々は、自分(自分の子供)だけが現在のシステムの中で「幸福」を掴むことを第一に考えようとしている。そのことが結果的に本当の意味での「幸福」から自分(自分の子供)を遠ざけることになるのかも知れない。 それでも、社会的に弱い立場、低い地位にある僕達は、そんなことを考える余裕がない。自分だけが幸せになろうとして、そう考えるみんなが潰し合う。誰も本当に幸せにはなれない悲しいシステムである。そして、そうと分かってはいても、そこから抜け出すことはできず、みんなが押し退け合っている。
正直者は馬鹿を見る。しかし、案外それは他の多くの人々が最終的には見てしまうものを、一足先に見ているだけなのかも知れないのだ。 犯罪者はどのみち囚人になる。力を持ち、金を積める者達だけが、それを免れることができる。
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