思考過多の記録
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イスラエルとパレスチナの対立を仲介しようとしたアメリカの調停工作は失敗に終わって、この後彼の地ではまた激しい暴力の応酬が始まるのではないかと世界中が懸念している。 こうしたパレスチナ情勢は連日メディアで取り上げられているものの、結婚式やクリスマスにはキリスト教徒に、年明けやお願い事、立て前では神道教徒(?)に、死ぬ時は仏教徒に、そして日常では無神論者になって平然としている日本人にしてみれば、海を隔てた遠方の彼の地の争いはどうも理解し難く、実感に乏しいものなのかも知れない。その証拠のような出来事が先日報じられていた。
イスラエル軍の攻撃を避けるためにパレスチナ人多数が立て籠もり、周りをイスラエル軍が包囲しているキリスト生誕の地に建てられた教会に、こともあろうに日本人旅行者2人が近付いて、中に入ろうとしたというのだ。この2人は数ヶ月にわたって旅行中で、その間ニュース番組や新聞を全く見ていなかったので、事態を把握していなかったらしい。それにしても、イスラエルとパレスチナの対立はなにも昨日や今日に始まったわけではなく、その地域が危険な場所だというのは、おそらく世界の「常識」の範囲内である。 これを「平和ボケ」というのだろう。ある意味で素晴らしいことであり、ある意味非常に危険である。という警告を発する気にもならない、情けない話ではある。
そもそも僕達には、信仰を巡って何故こんなに激しい争いが起きるのかが感覚的に理解できない。パレスチナ問題の発端は宗教と領土の問題が複雑に絡んでいて、信仰の違いだけで語れるものではないのだが、もしユダヤ教とイスラム教で聖地と神から約束された土地が見事に重なっていなかったら、ここまで酷いことにはなっていなかっただろう。それどころか、同じ宗教同志でも、宗派が違うだけで殺し合ったりした事例も歴史上枚挙に暇がない。僕は10年程前に上演した芝居の脚本に、宗教は「飯の種にはならないくせに、争い事の種にはなる」という台詞を書いたが、この国で信心とは無縁の生活をしていると、ついついそういう見方になってしまうのだ。 けれど、醒めてばかりもいられない。彼の地の人々にとっては、信仰は自分達の存在の根本と結び付いた大問題である。そしてそれは、僕達の生きている同じ「世界」に起きていることなのだ。
「神の意思」の実現のためと称して喜んで殉教者になる人々が、「異教徒」達を巻き添えにしていく。本来神から自分達に対して与えられた筈の土地に居座るのはそっちの方だとばかりに、戦車を繰り出し、民家にミサイルを撃ち込み、ブルドーザーで破壊する。文字通り「血で血を洗う」この争いは際限なくエスカレートしていく気配が濃厚だ。その過程で双方の憎しみが募り、もはや出口の見えない状況になっていく。いや、もうなっているのだ。この対立を止めさせることができるのは、おそらく各々の神だけだろう。しかし、まさにその神が原因で対立は起きているのだ。そして、神の本当の意思は人間には計り知れない。また、紛争の調停をはかるべき国際機関に神の座る席はない。
彼等が信仰する神々は、これからも黙りを決め込むつもりだろうか。それとも、これは全て人間が勝手にやっていることで自分達の与り知らぬことだと、まるで秘書が逮捕された代議士のような言い逃れをするつもりなのだろうか。はたまた、力を手に入れて奢る人間達に課した無言の懲罰だと居直る算段なのだろうか。 いずれにしても、既に多くの人々の血が流された。今回のイスラエル軍の侵攻で一体どれくらいの犠牲者が出たのか、確認すら取れない状況だという。家を失った人達も多数出ている。神の名において始まった争いが、人々の間に深い溝と癒えることのない傷を作り、悲しみと憎悪を再生産し続けている。 もはや神々にはこの紛争を解決する意思も力もないことは明白だ。かといって、人間の理性や叡智とやらが脆弱なものであることは、歴史と現実が証明している。
せめて、「世界」を見続けよう。何も知らずにキリスト生誕教会に近付いたあの日本人達は、何ヶ月間も自分達の足で世界を旅して、自分達の目で世界を見ていたにもかかわらず、結局はその背景にある「世界」が見えていなかったのであろう。 神々のに目に見える「世界」もまた、畢竟そんな程度のものでしかないのかも知れない。 そして人間は、そんな神々を信じることで、自らのささやかな人生に喜びや希望を見い出し、それによって生き延びているのである。
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