思考過多の記録
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| 2002年04月14日(日) |
今日まで、そして明日から |
その昔、誕生日といえば何かしら特別な感じがしたものである。その日がきて、ある年はケーキに蝋燭というお決まりのセレモニーがあり、思いもかけずプレゼントをもらった年もあったような気がする。それは、年齢が加算されることが何かしら誇らしく、きっと輝かしいに違いない未来に向かって一歩ずつ近付いていることを証明する日でもあったのだ。
けれどいつの頃からか、誕生日はその輝きを失っていった。そういえばそうだったな、という程度の認識の、ごくありふれた1日に変わってしまった。考えてみると、誕生日を祝うことにあまり根拠を見いだせない。自分が生まれたことは、そんなに特別な出来事だったのだろうか。そういえば、「かけがえのない」「取り替えがきかない」存在だとか、「この宇宙で、あなたという人間は1人しかいない」という殺し文句にぐらっとこなくなった。むしろ、本当にそうなのか確信が持てずにいる。 自分という存在が何かしら特別なものかも知れないという思いは、まるで自分の子供が(他の子供よりも)優れた能力を持っているかも知れないという多くの親の無邪気な思い込みに似ている。それは子供の成長とともに裏切られ、我が子も自分と同様どこにでもいるような凡庸な存在なのだということを、徐々に納得させられていくのだが、自分についての思いも同様の結末をたどるのが常だ。 そんなわけで、誕生日は日常の中の何でもない日に格下げされていき、いつしか、自分の老いを強制的に認識させられる、忌むべき、そしてできれば忘れ去りたい日にすらなってしまう。
それでもなお、誕生日は確実にやってくる。輝きと興奮を失った代わりに、何ということもないこの1日に僕が感じるのは、それでも今日まで何とか生き延びてきたということである。 不慮の事故や事件に巻き込まれたり、自分の意志とは無関係にこの国がある日突然どこかの国と戦争状態になったりすることで、唐突に命を失う危険をくぐり抜け、また行く末に絶望したり、人間関係に傷ついたり、恋を失ったりして、生きる気力を失いかけた状況を何度も通り過ぎながら、僕は生き長らえてきた。 そのことを再確認することは必ずしもこれからの生きる気力を呼び覚ますことにはならないし、ここまで生き延びたからといって、それがこの先も同じように生き延びることを保証すると考えるのは楽観的にすぎるけれど、何はともあれ僕は生き延びたのだ。それは、祝うべきことなのだろうか。
誕生日がただの通過点になって久しい。その毎日の単調な繰り返しで月日は過ぎていく。 37年前にこの世に生まれ落ちた僕は、心臓が停止するまで単調だけれどそれなりに波乱に富んだ日々をひたすら生き延びなければならない宿命を背負ったことを知らなかった。 それでも、少なくとも僕の両親は、おそらく僕の誕生を祝ったであろう。命が生まれ出ることは実は幾多の危険と困難を孕んでおり、それをくぐり抜けたことは無条件でめでたいことだったに違いない。 さて、来年の誕生日まで、僕は生き延びるだろうか。
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