思考過多の記録
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2002年03月31日(日) 「新しいこと」に対するキャパシティ

 僕の家のネット接続環境がISDNからADSL変わった。僕はネット導入時にアナログ回線からISDNに変えたため、パソコンのネット接続環境自体が変わるのは今回が初めてである。これまでもTAやパソコン本体を変える度に、接続やメールの設定等をし直してきたわけだが、今回の場合はそれよりも大きな変化だ。
 しかも、OSまで変えてしまったので、本当に基礎の部分を理解するところから始めなければならなくなった。



 何につけ、環境が新しくなれば、それ以前よりも快適だったり、高度なことが実現可能になったりする。より速いスピードで、より高度なことが実現可能になる。より低いコストで、より快適な環境を手に入れることができる。それまでは限られた人しかできなかったことが、より多くの人にとって当たり前にできるようになったりする。
 コンピュータ関連に限らず、あらゆる分野でこうした夢を具体的に形にした商品やサービスが次々に提供されてきた。僕達消費者は、「夢」を追い求めてより新しいものを手にしようとしてきた。両者のとどまるところを知らない巨大な欲望とエネルギーが、数々の技術革新を生んできたのである。



 新しいもの受け入れるには、当然それまでのものを捨てなければならない。
 それまで築き上げてきたものが全くの無駄になり、本当に一からやり直さなければならない場合もままある。また、新しいものへの転換はリスクを伴うことも多い。
 それならば、慣れ親しんだそれまでのものでもいいではないか。ほんの少々の不便に目を瞑りさえすれば、今のままでも十分やっていける。新しい者が無条件にいいわけではない。そう考える人間がいたとしても少しも不思議ではない。



 また一方、新しいものを手にすることは、わくわくすることでもある。まるで子供が新しい玩具を手に入れた時のように、触っているだけでも楽しく、時を忘れさせてくれる。新しいものは、それまでの自分が体験しできなかった世界を見せてくれる。昨日までは素晴らしかったことが、新しいものを手にした今、とても陳腐なものに思えることもあるだろう。
 僕達は新しいものが与えてくれる高揚感を知っているから、次にはどんなものが出てくるだろうと期待を持つ。多少のリスクは引き受けても、それによって実現できることの方をとろうとする。そういう人間もまた、確実に存在している。



 問題は、新しいものを受け入れる時に、精神的・肉体的な「しんどさ」をどの程度感じるかということだ。それは、自分に変化を受け入れるキャパシティがどれくらいあるのかということである。
 たいていの場合、精神的・肉体的エネルギーに満ち、思考も柔軟な若い世代の方がキャパは大きい。そして、それは年齢に反比例する。この「しんどさ」の増大が、新しいものを受け入れることのハードルになる。僕自身、そうなりたくはないと思いながらも、年々このハードルが高くなっていると実感する。現状でもさほど不便を感じないのなら、わざわざエネルギーを使って高いハードルを越えることもなかろうと、つい思ってしまうのだ。



 かくして、人は精神的・肉体的に老いていくのだとつくづく思う。新しいことにわくわくできる精神的な柔軟性を失い、記憶力・理解力の衰えが壁となって、もはや新しいことに価値を見出せなくなるのだ。
 勿論、新しいことが全ていいことではないけれど、せめて何故その「新しいこと」が生まれてきたのか、そしてそれが広く求められているのかを考える力だけは失いたくないと思う。



 古い価値観を捨てられずに、それにしがみついている人間は多い。それを自覚しているならまだしも、その古い価値観を絶対的なものだと思いこみ、あまつさえそれで社会を動かそうとしている人達の醜悪さは目を覆うばかりである。新しいものに対する自分のハードルが一定の高さを超えたら、それは第一線を退く潮時がきたことを意味する。悲しいことだが、それは冷徹な事実である。
 しかし、新しいことに無条件に順応したり流されたりすることが正しいわけではない。その微妙なバランスを保っていくことが、常に新しいものを生み出し続ける高度資本主義社会のただ中を生きる僕達の課題である。


hajime |MAILHomePage

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