思考過多の記録
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2002年03月24日(日) 働く「母親」という不条理

 国の少子化対策の一環としての男女雇用機会均等法改正に伴い、育児をしながら働く共働きの(多くの場合)母親に対して、時短を認める期間がのびた。これまでは満1歳の誕生日の前日までだったのだが、この春からは3歳の誕生日前日までとなる。またこの間は、残業時間についても、本人の申請があれば上限を設けることができるとされている。
 法律的にはここまでだが、僕の勤務する会社では母性保護の要求を組合が出し続け、これに該当する人達が声を上げてきた結果、母性保護については「権利」という位置付けであるとの一定の共通理解ができあがっている。よって、この時短は有給保証となっている。規模の小さな会社ながら、こうした労働条件はある程度の先進性を持っていると思われ、僕自身誇りに思うところである。



 この労働条件の前進を巡って、うちの会社の複数の職場にいる母親達が意見交換をしたところ、実に意外なことに、この改善を「有り難迷惑」と受け止める意見が出されたというのだ。その人達の言い分は、現在の条件の下でさえ十分恵まれているのだから、これ以上要求はしたくないというものだ。
 しかし、よくよく聞いてみると、どうやらそれは周囲の人間関係や職場環境に起因しているのだと分かった。すなわち、そうした母親達の立場への職場の理解度の違いによって、彼女達の意識に差が出ていたのである。



 ご多分に漏れずうちの会社もここ数年業績は思わしくない。なので、当然人間を増やさない。退職者が出ても補充しない。けれども、仕事の量はさほど変わっていない。いきおい1人1人の労働は過密になる。フルで働けるだけではまだ不十分で、残業をして何とかこなせるかどうか、場合によっては休日出勤も、という状態が半ば当たり前になってくる。
 周囲がこんな状況だからといって、自分の子供の状態が変化するわけでもない。ある程度の年齢までは熱も出しやすいし、麻疹やお多福風邪といったお決まりの病気にも罹る。ダウンすれば長い上に、兄弟姉妹がいれば必ずと言っていい程移されるし、場合によっては親本人もダウンする。配偶者と交代で休めるような家庭の場合はまだしも、相手が全くあてにならない場合はどうしても母親に負担がいく。いずれにせよ、結果的に休みが増える。育児特別休暇や有給休暇を使い切っても足りない場合も出てくる。
 そして、周囲の人間にとっては、事情はどうであれ、休むことで仕事に穴を開けたことに変わりはないのだ。



 彼女達は、周囲の視線を嫌という程感じている。それがプレッシャーになる。中には彼女達に面と向かって攻撃の言葉を浴びせかける同僚もいるそうだ。そんな状況の中、彼女達は追い詰められ、自分は会社にとって不要な、いやそれどころか邪魔な存在なのではないかという思いを抱くようになったのだ。
 そこに降って湧いたように法律の「改正」である。確かに条件が整備されていくことは、そのこと自体大変好ましいことであり、彼女達にとっても朗報である。しかし、「人並み」に働けていない自分達が、なおも自分達を保護する法律や労働条件の改善によって「恵まれた」存在になることは、今以上に自分達が周囲に迷惑をかけることを「権利」によって正当化していると見られてしまうのではないか。彼女達の懸念はそこにある。



 勿論、そこには育児の問題以外の部分での人間関係という要素が絡んでおり、それが問題をより複雑化していることは否めない。しかし、この「懸念」を全面に出して「企業にとっては、雇用するには独身の男性が一番いい」と当のワーキングマザーの1人が言い、比較的このプレッシャーが弱い職場のワーキングマザーが「何故私達の側がそんなことを言う必要があるのか」と食ってかかり、険悪な言い合いになってしまったという話を聞くに及んで、僕はとてもやりきれない、悲しい気持ちになった。



 子供を産みながら働く人達には、それぞれに事情がある。自己実現のための仕事を棄てたくないという思いから働き続ける人達もいれば、経済的なことが理由である人達もいるだろう。たしかにそれは個人の選択であるけれど、だからといってそこから派生する問題の何もかもを、その人達に押し付けていいものだろうか。
 もし、問題は全てその個人が抱え込んで、悩み苦しむのはその個人だし、解決も個人の力でしろということになったら、一体誰が子供を産んで育てたいなどと思うだろう?そう、これは「子育て」という、プライベートに見えて実は非常に社会的な行為に関わる問題なのだ。彼女達が育てているのは、他でもないこの社会の未来を担っていく人間達である。



 働く「母親」が、一見当たり前に見えるくらい社会に広まっていながら不条理な存在になっているのは、「子育て」とフルタイムの責任ある仕事が両立しないという、物理的な制約に裏打ちされた漠然とした「思想」がまだまだこの社会に支配的だからであろう。だから、それをしようとする女性は「ワガママ」に見えるのだ。だから、周囲も本気で助けようとしない。勿論、社会も。そして企業も。
 そのくせ彼等は少子化を憂いてみせる。そしてそれすら、最終的には個人の責任に帰そうとするのだ。



 けれど、僕の母親がそうであり、そして今同じ職場で働く者として彼女達を間近で見ている僕には、彼女達だけが悩み、苦しみ、そして争っているのがどうしても納得がいかない。
 これは本当に彼女達だけの問題なのだろうか。


hajime |MAILHomePage

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