思考過多の記録
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社民党の辻元清美衆議院議員が、公設秘書の給料を詐取していたのではないかという疑惑が降って湧いた。辻元氏といえば、先日の国会で鈴木宗男議員を「嘘つき」呼ばわりして一躍有名になった、自民党批判の急先鋒だった人である。 これまで攻撃される一方だった与党、とりわけ自民党は勢いづき、この問題を徹底的に調査し、国会の場で真実を究明すると息巻く。この前、自分達の身内が批判に晒されていた時とは手の平を返したような積極的な対応である。あまりの分かりやすさに思わず笑ってしまう程だ。
国会議員の秘書については、かなり前から様々な形での不正が行われていたようで、しかも与野党を問わずかなりの政治家がこの制度を悪用していたと言われている。勿論、だからといってこの件についての真相究明をしなくていいというわけではないのは、鈴木議員のケースと同じである。与党であれ野党であれ、疑惑をもたれたならば、それを晴らす努力はしてもらいたいし、仮に法に触れる行為や道義的に問題がある行為があった場合は、当事者はきちんと責任をとるのは当然である。 けれども、上記のことと同じくらいに、何故この時期に、与党議員を攻撃していた本人に対する「疑惑」が浮上してきたのかを考えることもまた重要であると僕は思うのだ。
今回の場合、難しく考えることはない。先にも書いたように辻元議員は鈴木議員批判の急先鋒だった。そして、鈴木問題と、それと前後して表面化した加藤元幹事長の問題が、自民党にとってはダブルパンチになってしまっていたのだ。このままでは政権や党の支持率の低下は避けられず、選挙への影響も懸念された。いくら言い訳をしても、生まれ変わると宣言しても、これまでの経過を踏まえれば、それを信用する国民は少ないだろう。 かなりの危機意識が自民党およびその支持勢力にはあった筈だ。 この危機を乗り切る最も効果的な方法は何か。それは、攻撃している側のイメージを傷付けること。そのことによって攻撃の手を緩めてもらうことに他ならない。 こうして、「辻元疑惑」はリークされたのだ。
この「疑惑」を最初に報じたのはある週刊誌だが、この雑誌は所謂‘イエロージャーナリズム’の老舗的存在であり、田中真紀子攻撃は言うに及ばず、日本社会の「保守本流」的なあり方を逸脱するものに対しては、個人といわず団体といわず徹底的に攻撃を加えてきた。挑発的なタイトルで目を引き、露悪的な記事で部数を稼ぎ、自民党などの保守勢力に恩を売ってきたのである。 今回の「暴露」も、この文脈で語られなければならない。先に書いたように、秘書制度を悪用していた(と疑われるようなことをしていた)のは辻元議員だけではなく、また今回問題になった1997年以前にも、勿論自民党議員を含めて多くの議員が行っていたことなのだ。もし本気で「秘書制度に関わる不正」という観点から問題を調査し始めたら、今大はしゃぎしている自民党議員達の中にもただでは済まない人が出てくる(そういう輩はもっと巧妙にやっているだろうが)。けれど、その部分を隠したまま、敢えて辻元議員だけに焦点を当てたところがポイントである。そこには、突出するものを貶め、ことの主導権を自分達の手に取り戻すことによって、‘彼等’にとっての「秩序」を回復しようとする意図が見える。 勿論、政治とジャーナリズムの間に何か密約があったのか、それとも‘阿吽の呼吸’というやつか、本当のところは分からない。
‘彼等’にとって、「真実」はどうでもいい。ただ、与党を激しく批判していた張本人が「何かやったらしい」という印象を国民に与えられれば、所期の目的は達したことになる。 僕達に必要なのは、情報を流し、それを利用する人々のこうした意図を見抜く目である。どんな情報にも、純粋な「真実」などあり得ない。その流されるタイミング、発表の場所、強調のされ方等々、様々なバイアスがかかる。だからといって、僕達は情報と無関係に生きることはできない。そうであれば、僕達はこうした背景にあるもの(文脈)等を含めて情報を読み解く能力を身につけなければならないのである。そして、情報の「質」を判断する自分なりの基準を持つことが求められる。
メディアが力を持つ情報化社会とは、誰もが「嘘つき」ではないかと疑わなければならない社会に他ならないのかも知れない。
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