思考過多の記録
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ある男性の妻と幼い娘を、未成年だった1人の少年が殺害した。男性の妻をレイプしようとして抵抗され、その女性を殺してから犯し、側にいて母親にすがりついてきた娘を床にたたきつけて殺害するという、身勝手かつ残忍きわまりない反抗だった。 被害者の遺族であり、原告である男性が、少年法に守られた未成年の犯人に対して死刑を求めて裁判所に提訴した。1審、2審ともこの男性の事実上の敗北だった。
男性はこの間一貫してメディアの取材に積極的に応じ、犯行の残忍さと自分の無念さを訴えてきた。同時に彼は、未成年である犯人に対して死刑が適用されないのはおかしいと繰り返し表明してきた。「もし国家が彼を死刑にしないのなら、自分が彼を殺すまでだ」とまで言ってきた。そして2審判決の夜、彼は生放送のニュース番組に出演し、インタビューに答えて、犯人が死刑にならないことの理不尽さについて、自説を蕩々と語っていた。
この男性の気持ちは分からないではない。これから幸せな家庭を築きあげていこうという矢先に、自分の最愛の妻と娘を惨たらしく殺され、その犯人は大して反省している様子もない(とこの男性には思われた)のに、未成年だというだけで命が助かり、軽い刑でいずれは社会復帰することになるのだ。割り切れない思いはあるだろう。この男を殺してやりたいという気持ちで自分が支配されてもやむを得ない。 にもかかわらず、僕はこの男性の主張に対して違和感を抱いてしまう。それは、彼の立場があまりにも「正当」で、反論を許さないものだからかも知れない。
彼の言い分は、おそらくこうである。 人を殺した犯人が、罪を償うために国家によってその命を奪われる仕組み、それが「死刑」である。もし誰かの命を奪ったものが死刑に処せられないとしたら、それは国家がその犯人の命を保証したことになる。つまり、人を殺しても自分は死ななくていいのだという価値規範が国家によって認められることになる(彼は本当にこういう言葉遣いをした)。だとすれば、殺された人間の命の重みは、殺した人間よりも軽いことになるのではないか。そして、そのことが殺人に対するしゃかいの抑制力を弱めはしないか。 「自分という人間の無力さを感じる。家族を守れなかったばかりか、その家族を殺した人間を極刑にしてほしいという訴えを聞き入れてもらうことができなかった」。彼は2審の判決後の記者会見でそういう意味のことを語った。
彼はいかにも理路整然と語っているように見える。だが、実のところ彼は、自分の家族を殺した人間に対して「復讐」することしか頭にないのではないか。 平たくいえば、犯人を殺したいということだ。だが、自分でそれをすれば「犯罪」である。だから自分に替わって国家に彼を殺してほしいのだ。復讐心が彼を完全に支配している。そして誰も反論することのできない彼の境遇が彼の「正当性」を保証する。彼の復讐心は「使命感」の衣を身に纏う。そしてそれは、私的な怨恨、すなわち「情念」の問題を「死刑」や「少年法」といった「制度」の問題に変えてしまう。「情念」を「情念」のまま吐露することの多い他の殺人事件の被害者の遺族のコメントや反応と明らかに違う点は、おそらくここである。 そして、彼の反論を許さない立場が彼の主張の「正当性」を担保する。その主張は「死刑廃止反対論」や「少年法改正賛成論」へと転化し、彼の境遇はそれらの思想の「正当性」をも担保することになる。 僕が彼とその主張に対してどうしようもなく違和感を抱いてしまうのは、おそらくこうしたことが原因であろう。
自分の愛するものが殺された。だから殺した相手を殺す。繰り返しになるが、法律を介そうが介すまいが、結局それは「復讐」の論理である。「復讐」はいかなる場合でも正しいということになれば、あのイスラエルとパレスチナの争いのような事態を招く。 彼の最愛の家族を殺した当時18歳の少年は、その罪の重さをと自分がしてしまったことの重大さを理解し、それを受け止めるにはまだまだ若く、精神的に未熟に過ぎた。それと同じように、彼もまたこの事件をより深く、広い視野で捉え、それを受け容れるにはあまりに若く、それ故に悲しみと憎しみという「情念」により強く支配されてしまったのだと思えてならない。それは僕がそういう辛い経験をしていないからだと言われてしまえばそれまでかも知れない。
彼が出演していたニュース番組では、以前、全く別の死刑囚に関する取材に基づく特集を何度か組んでいた。それは、自分の弟を殺された男性が、死刑が確定した犯人の男性の死刑の執行を停止させるために奔走するという話だった。 その人は、犯人と何度も手紙をやりとりする中で、犯人に対して、決して許すことはできないが、むしろ生きて罪を償ってほしいと思うようになったという。結局、この人の願いも虚しく、死刑は執行されたそうである。
人の命の重さについて。何が正しくて、何が間違っているのかについて。それを受け容れるには、僕達は皆あまりに若く、未熟すぎる。
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