思考過多の記録
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2002年02月22日(金) 目に見えないものを評価する

 ソルトレイクオリンピックのフィギュアスケートの採点を巡り、不正が行われたのではないかという疑惑が取り沙汰され、一旦2位と決まったカナダのペアに改めて金メダルが授与されるという珍事が起きたことは記憶に新しい。渦中の人となったフランスの審判は、疑惑発覚直後の自分の発言を撤回し、採点はあくまでも自分の判断だったと主張している。真相は今もって闇の中だ。



 例えば、純粋にタイムや距離といったものを競う競技であれば、こういう問題は起こりにくい。反則の判定の是非等が問題になることはあり得るが、順位の決定、すなわち勝ち負けが直接疑われることは少ないだろう。数字は冷徹なものであり、たとえ100分の1秒差であっても順位は明確につけられる。もしそれが疑われるとすれば、計器の故障か、選手側の不正(ドーピング等)が原因となる。そこに審判の判断の入り込む余地は少ない。
 こうしたことが問題になるのは、もっぱら「芸術点」といった、本来数字には表せない何かを評価しなければならない競技においてである。そしてそれは、何もスポーツの世界だけの話ではない。



 例えば、芥川賞等の芸術作品に与えられる賞の選考は、一体何が基準になっているのだろうかと思う。重要なポイントとして「面白さ」があるだろうが、この漠然とした、けれど決して外すことの出来ない項目を客観的に評価し、順位をつけることは不可能である。どんな傾向の作品を「面白い」と思い、魅力を感じるかは、それこそ人によって基準が違う。平たく言えば「好み」の問題ということになる。そこで、こういう賞の場合、いろいろなジャンルの「識者」と言われる人々が選考委員となって、合議制で決定するシステムとすることで、ある程度の客観性を保とうとしているわけだ。
 勿論、芸術作品といえども技術的な面での優劣はあるわけで、その点は比較的分かりやすいのだが、それとても、例えばピカソの絵を「デッサン力がない」という理由で低く評価することに意味がないことからも分かるように、評価の絶対的な基準ではない。ましてや、「表現力」「芸術性」といったことに関しては、各人が固有の基準をもっていて、どれがより適切な基準なのか判然としない。だから、選考委員が全員一致で選んだ受賞作であっても、それを優れているとは思えない人間が出てくるのは当然だ。
 その作品が賞を取ったということと、その芸術的な価値の間には、ある一定以上の相関関係はない。その証拠に、受賞を逃した作品が別の形で評価をもらったり、その時は見向きもされなかった作品が、ずっと後の時代になって高い評価を受けたりすることは、決して珍しいことではないのである。



 何かの賞の受賞作であるという理由だけでその作品を「面白い」「優れている」と思うことは意味がない。逆に、選ばれない作品が全てつまらない、劣ったものであるというわけでもない。それはあくまでも判断の基準の一つである。重要なのは、その作品を享受する僕達一人一人が、自分自身の判断基準を持てるかどうか、そしてそれを信じられるかどうかだ。
 そして同時に、自分と違う基準を排除するのではなく、何故そういう基準になるのかについてお互いに意見を交換し合うことも大切だ。そのことによって「芸術性」という目に見えないものを捉える「目」をいっそう確かなものにすることができるのである。



 オリンピックにしろ各種の芸術に与えられる賞にしろ、パフォーマンスや完成した作品という目の前に厳然と存在するものから、目に見えないものを抽出してそれに「順位」をつけるという、本来到底不可能な作業を強いられるのは、選手(芸術家)、審判(選考者)どちらにとっても酷なことだと僕は思う。フィギュアは本来はエキシビションだけでいいのだろうし、小説家はあくまでも自分の表現欲に忠実に作品を紡ぎ出せばいいのだ。
 けれども、何か目標がないと頑張りきれないというのも人間の悲しい性である。本来は競ったりできないことを競うことで、そのジャンルのいろいろな意味での水準を向上させる。そのことで人間は能力を高め、さらに新たな可能性に挑戦してきたのだ。
 そのことは分かりつつも、何かやるせない気持ちになってしまうのは、僕があらゆる「競争」に対して違和感を持ち、またあらゆる「競争」からはじき出されてしまったからだろうか。
 もっとも、僕は自分の作品が評価されなかった場合、「好みの問題だから」と思うことで自分を慰め、自分の作品のレベルが低いことのカムフラージュにちゃっかりこの論理を利用していたりしているのである。


hajime |MAILHomePage

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