思考過多の記録
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「あいのり」とか「学校へ行こう」とか、所謂「素人」参加のドキュメント型バラエティ番組が流行のようだ。これは「電波少年」のお笑い系芸能人シリーズあたりがルーツだと思う。毎回課される課題(無理難題)や試練に挑む参加者の様子をスタジオで別の芸能人が見て、笑いの種にしたり一緒に胸をキュンとさせたりするというものだ。それをさらに視聴者が見て楽しむというわけである。 類似の企画が続いているということは、このコンセプトはそこそこ視聴者に受け入れられているのだろう。しかし、僕はこの種の番組を目にする度に、何だか嫌な気分になる。
この手の番組はRPGに似ていると言えなくもない。様々な登場人物(出演者)がひとつひとつ難関をクリアしていく感覚がそれである。ただ、ゲームと違うのは、視聴者はプレーヤーのように画面の登場人物達を自分の思い通りに動かすことはできないという点だ。登場人物達はあくまでも自分の意思で動く。これは視聴者が不自由さとじれったさを感じることに繋がる。「あいのり」はこの点を上手く使った企画である。ある程度番組サイドが仕掛ける部分はあるだろうが、基本的には先の展開が読めないのがこれらの番組の特徴だ。 この「自分達にはどうすることもできない」という視聴者の立場は、別の観点から見ると「無責任に楽しめる」ということである。勿論、全てのテレビ番組は視聴者が「無責任に楽しめる」ように作られているので、それ自体をとやかく言うことはできない。僕が嫌な気分になる原因は、おそらくそれが「素人」=一般の人がある仕掛けの中に放り込まれて右往左往する姿を、同じ一般の人々が見るという構図にある。
ある仕掛けの中で右往左往する人間を見て観客が楽しむのは、エンターテインメントの基本ではある。映画も演劇も見せ物もこのバリエーションに過ぎない。ただし、従来のそれにはルールがあって、一つはその枠組みがフィクションであること、もう一つは見られる側はそれを生業とする人間(役者・コメディアン等々)であることだ。見る側はそれに対してお金を払っていたのである。芸能人が一般人より低く見られる傾向にあるのは、この図式の延長なのであろう。 しかし、素人参加のドキュメント型バラエティ番組の場合、このルールが成り立たない。言わずもがなだが、見られる側は見る側と本来は同等の存在、つまり一般人である。この人達は、本来他人に自分の見られたくないような一面までさらけ出さなければならない理由はない。何故なら、それで食べているわけではないからだ。とはいえ、「テレビに出る」ということがある種の価値を持っていると感じている一般に人間が、進んでそうしたいと望むのならば、テレビの制作者側としてはそれを素材に使うというのもありだろう。 僕に嫌悪感を抱かせるのは、その枠組みが必ずしもフィクションではないことなのである。
例えば、「あいのり」は車に乗って旅をする何人かの若い男女の中からカップルが生まれるかどうかを追っていく構成だ。ここで「素材」になっているのは恋愛である。彼等はカメラが回っていることを意識してはいるだろうが、それでもかなり「マジ」なモードで好きになったり駆け引きをしたりしているようだ。恋愛は最もデリケートな人間関係であり、その人の人格の全てをかけて行うものである。失敗すれば当然ダメージも大きい。それに対して、本来他人はとやかく言える立場にないものだ。 しかし、この番組はそういったことをことごとく無視する。彼等の赤裸々な姿をカメラは平気で捕らえ、それに対してスタジオの芸能人がコメントをしさえするのだ。コメントの内容が問題なのではない。それは人の心を弄んで、それをネタに楽しむ無神経きわまりない行為である。勿論、画面には映っていないが、その向こうには同じように視聴者がいて、コメントをしたり突っ込みを入れたりしているのだ。 出演者達の行動を見て、一緒に切なくなったりするのも良いだろう。けれど、何度もいうがそれはフィクションではないのだ。ドラマの中で登場人物が傷付くのと、見た目には似ているが全く違う次元の出来事なのだ。
決して傷付くことのない安全な場所から、「無責任」に高みの見物をしながら突っ込みを入れる。スタジオでの芸能人達の役割は、そうした視聴者の視点を代表している。彼等はまるで、動物園の檻の中をいくらかの愛情と憐憫と蔑みと好奇心の入り交じった顔でのぞき込む人間だ。あるいは、実験動物を観察する研究者といってもいいかも知れない。いずれの場合も、見る側は見られる側よりも優位な立場に立つ。見られる側はどうすることもできない。さながらいじめっ子といじめられっ子の関係のようだ。この関係の非対称性が、何とも言えない嫌悪感を僕に抱かせるのである。 そういえば、「あいのり」の正式なタイトルは、「恋愛観察バラエティ あいのり」であった。 同じことは、受験と恋愛をネタにしている「学校へ行こう」にも言えるだろう。
誰も自分の人生や恋愛などの心の問題を、不特定多数の人間に見られたり、自分から見えない数え切れない場所で夥しい人達に突っ込みを入れられたりする謂われはない。純粋にドキュメンタリーとして描かれるのと、バラエティとして扱われるのとでは、本質的に違うと思う。バラエティにあるのは、どこか「見下した」視線であり、関係の非対称性である。 そして、人間は誰しも、こうした関係で優位な立場に立ってみたいと思うものだ。だからこそ芸能情報があるし、もっといえばマスメディアの存在そのものがそれに支えられているのである。それは紛れもない事実だが、もう少しそれを恥ずかしそうに、または申し訳なさそうにやってもいいのではないか。そんなことを考える前に、視聴率を取れる企画を考えるのが先決だというのが、あの業界の思想であろう。 けれども、メディアだけを責めるわけには行かない。インターネットと同じように、こうしたメディアのあり方そのものが、僕達の「欲望」や「悪意」が具現化したものなのだから。
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