思考過多の記録
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2002年02月10日(日) 素敵な悪戯

 今話題の(?)映画「アメリ」を見に行った。昨年の冬に公開されたのだが、公開当初単館上映だったので大して混みはしないだろうと高をくくって行ってみたら、まるで「踊る大走査線」かと思うようなとんでもない行列が映画館を取り巻いていて、尻尾を巻いて帰ってきたものだった。
 暫くして上映する映画館も増え、もう大丈夫だろうかと恐る恐る行ってみた。週明けの平日の夜だったにもかかわらず、ほぼ満席。メディアが取り上げたこともあり、やっぱり今でも人気があるらしい。



 僕はそんなに映画を頻繁には見ないので的確な評論はできない。しかし、そんな僕が見ても相当面白い映画だった。監督のジャン=ピエール・ジュネはもともと暗い作風で知られていて、その彼がどうしてこんな一見ハートウォーミングな映画を?というあたりから映画通の人達は面白がるのだろう。
 見ていない人にはよく分からないかもしれないが、とにかく登場人物の造形と描写が面白い。デフォルメされてはいるが、それぞれの人物やエピソードにいちいちエスプリが利いている。もし同じことを日本映画でやったら、悪意と趣味の悪さが目立ってしまうことだろう。
 これはおそらく、フランスという国が育んできた文化と芸術の伝統からきているものだろうと思う。モーパッサンやカフカを読んだときも、僕は同じことを感じた。笑いや物語自体に批評性が感じられるのだ。この批評性が、戯画化されていても人物が薄っぺらくなるのを防ぐ効果を与えているのだろう。



 しかもこの人物たちが、みんな一癖も二癖もあるくせ者揃い。内向的で自分の世界に閉じこもる父親に育てられ、映画館に行くと映画よりも観客を観察し、手の込んだ悪戯が好きな主人公・アメリをはじめ、彼女が一目惚れするニノはAVショップの倅で、趣味はスピード写真の余りとして機械の側に捨てられた写真を集めてスクラップすることといった具合だ。
 メインのストーリーは、この二人の出会いから結ばれるまでを描くというものだが、その過程でアメリがニノに仕掛ける悪戯も面白い。しかし、それ以上に、アメリの悪戯の顛末に関わって描かれるサイドストーリーがどれも面白くできていて、それぞれに楽しめる。曲の強い人物造形がここでも生きるというわけだ。


 アメリは内向的な女性で、自分が世界としっくりいっていないという感覚を常に抱いて生きてきた。しかし、彼女は「悪戯」を通して常に世界に対してちょっかいを出していたのである。そのことが、彼女の悪戯の仕掛けの中に入った人間達に影響を与えていくことになる。つまり、彼女は彼女なりに世界に参加しようとしていたのだ。
 「悪戯」とは、いわば当たり前の世界をちょっとずらしてみる行為である。それによって生じた隙間こそ、アメリと世界の接点となりうる場所だったのだ。その微かに開いた隙間に、ニノはぴったりフィットした人間だったのだ。
 そして、ニノと結ばれることで、彼女は本当の意味で世界に直接触れ、二人は「悪戯心」を持ったまま世界に参加することになるというのがこの映画の結末である。
 精神科医の香山リカ氏が「これを見た内向的な人の多くが『内気で何が悪いの?』と居直る‘アメリ化’が起きるかもしれない」と半ば揶揄を込めて批評していたが、それは些か意地悪すぎる見方だろう。少なくともアメリは、一方的で遠回りな手段とはいえ、世界に働きかけをしていたのであり、違和感を持ちながらも世界を観察している。ただただ自分の殻に閉じこもっているのとは違うのだ。そして僕は、こういう‘内気’の描かれ方にも、フランスの文化と風土を感じてしまう。



 映像の色調はシックな中にも鮮やかな色遣いで、登場人物達の部屋に一見雑然と置かれた小物類といい、町並みといい、全体的にお洒落な印象である。様々な映像的な手法と併せて「映像で語る」ことについてもいろいろ考えさせられた。



 偏執狂で有名なジュネ監督は、この作品に200もの様々なアイディアを注ぎ込んだそうだ。最初に見るときはどうしてもストーリーを追うのに精一杯になってしまいがちで、多分見逃していることも多いだろう。DVDが出たら是非もう一度見て、ジュネ監督の仕掛けをとくと体験したいものである。
 きっとこの映画自体が、ジュネ監督が世界にちょっかいを出し、ずらして見せた素敵な「悪戯」だったのだと僕には思える。


hajime |MAILHomePage

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