思考過多の記録
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| 2002年01月26日(土) |
「中立」という「偏向」 |
ノーベル賞作家の大江健三郎氏が、新潟県のとある高校で記念講演を依頼されて一旦は承諾したものの、その後その学校の校長から手紙で政治的な発言を慎むよう要請されたため、講演を辞退したと新聞が報じていた。この件は様々な問題を含んでいるが、講演を依頼した外部の人の発言をコントロールしようという非常識な発想を非常識とも思わないで実行に移してしまったあたり、いかにも閉鎖的な「学校ムラ」のお話だと揶揄して終わるくらいが面倒がなくていいのかも知れない。 しかし、僕はこの話を読んで、しばしば問題になる「政治的中立」のことを思い出した。そして、この点に関して、ずっと以前から学校は驚く程変わっていないのだと改めて感じたのだ。
教育の現場ではこれまでも「日の丸・君が代」問題をはじめとして、様々な場面で「政治的中立」が問題になってきた。その殆どの事例において、この言葉を持ち出すのは大抵は官、すなわち文部科学省や教育委員会、また校長や教頭等の管理職の側である。成る程、ことが子供達の発達や人格・思想の形成に大きな影響を及ぼす教育に関わることであってみれば、彼等が神経質になるのもある程度納得がいく。教育の内容に何らかの配慮はあってしかるべきだろう。しかしこの時、一体どの立場が「中立」と言えるのかについて、明確な基準を示した例はついぞ聞いたことがない。それもその筈、もともとそんな基準など存在していないからだ。いや、それ以前の問題として、そもそも「中立」という立場それ自体が存在するのか疑わしいのである。
「中立」を言う人々の多くが、自分は「中立」の立場にいると信じて疑っていない。だから、その立場から見て少しでも異なる思想を持っている人間は、「偏向」しているように見えるのだ。かの校長から大江氏に宛てた手紙には「我が校は『日の丸』を掲揚し、『君が代』を歌う高校だ」という趣旨のことが書かれていたという。つまり、その校長の考え方によれば、「日の丸」を掲揚し、「君が代」を斉唱するのが政治的に「中立」なのであり、それに異議を唱える立場は政治的に「偏向」した立場だということになるのである。 「日の丸・君が代」問題のみならず、大江氏は核や環境、政治的諸課題に対してこれまで活発な言論活動を展開してきたことはつとに有名であり、またどちらかというと体制側に批判的なスタンスを取ってきたことは事実である。この校長にしてみれば、大江氏の主義・主張は到底「中立」とは言えず、それが教育の場に持ち込まれることに対して彼が強い危惧の念を抱いたであろうことは想像に難くない。大江氏の講演を聴いた彼の学校の生徒達や教師達が、大江氏の「偏向」した立場に影響を受けでもしたら大変なことになるという懸念を彼は抱いたのだ。あるいはそういう趣旨の助言(入れ知恵)をした者が学校の内外にいたのかも知れない。いずれにしても、彼が自分の思想は「中立」であるという前提で大江氏に手紙を書いていることは間違いない。
けれども、例えば「日の丸」「君が代」に賛成する立場が「中立」だと言える根拠は何なのか。それは‘国家’や‘共同体’(‘社会’ではない)が“正しい考え方”というお墨付きを与えているからである。それ以外に理由はない。反対に、核兵器や原発に反対したり、ダムや高速道路の建設に反対する住民運動に参加したりする行為が“偏っている”と見なされるのは、それが‘国家’や‘共同体’によってお墨付きを与えられた考え方に逆らうものだからである。 ごく大雑把に言ってしまえば、政治的な問題に関して発言すること、なかんずく‘国家’=‘お上’とは異なる立場から意見を表明したり行動したりすることが、この国では「偏向」と見なされるのである。これは教育の世界に限ったことではないが、特に学校をはじめとする教育界ではこの傾向が強いように思われる。それは、先にも書いたように、教育が人間の人格や思想の形成に大きな影響を持っているからだ。‘お上’の意図は明白である。自分達に異を唱えることをしない、従順な人間を育成したいのだ。そのことによって自分達の考え方や方針、やっていることが“正しい”とされる世の中が未来永劫続いていくからである。 そのために、教育は常に「中立」であることが求められるというわけである。 だが、それは「中立」な立場などではあり得ない。それは‘国家’や‘共同体’の価値観の側に「偏向」した立場である。そして、どんな問題に対しても、誰もが「中立」の立場に立つことはあり得ないのだ。何故なら、「中立」であるか否かを判定する者が「中立」である保証はどこにもないからである。
言うまでもないことだが、‘国家’や‘共同体’によってお墨付きを与えられた価値観以外のものを排除し、それらを児童・生徒達から遠ざけるのは教育本来の姿ではない。例えば 「日の丸」「君が代」に関して、この国の社会には様々な考え方があり、立場がある。そのことをまず確認した上で、それぞれの思想の背景やそれが登場した歴史的経緯等を学習し、問題に関する理解を深めていく。そのことによって、この社会で生きていく上で大切な、自分とは異なる考え方の存在を認め、それを理解し尊重する態度を養う。それが教育というものではなかろうか。 あらゆる政治的な問題には思想・信条の対立が付き物だ。面倒な事態を回避するためにそれらを扱わなかったりするのは、社会を担う人間を育成するという教育の重要な役割を放棄することになる。ましてや、‘国家’が掲げる価値観のみを「正しい」とする立場に児童・生徒を誘導し、それで事たれりとするようなことは決してあってはならないことである。 大江氏に手紙を送った校長は、こうした教育の基本的な在り方を理解していなかったのではないかと思われる。異なる立場の言論を当然のように封じようとするような人間が、学校運営の最高責任者を勤めているという事実に、僕は愕然とする。そしてまた、そういう人間を当然のように校長に任命した教育行政に対しても、驚きと憤りを禁じ得ない。
大江氏は、講演を断ったのは政治的な立場の違いからではなく、政治的な宣伝を行うつもりは全くなかったと言っている。彼は「寛容について」というテーマで講演することにしていたのだそうだ。 その講演を一番聞く必要があったのは、おそらくその学校の校長だったのである。
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