思考過多の記録
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2002年01月19日(土) Dreams come true.

 今週は成人の日があった。‘荒れる成人式’が問題になった去年の教訓を踏まえ、今年は時間を短縮したり、警備を厳重にしたり、イベントを取り入れた自治体が多くなったという。中には保護者も参加させたところもあるとか。そうまでして成人式はやらなければならないものなのかという疑問は消えない。
 その成人式では、きっとどこの開場でも挨拶に立った偉い人(大抵はその自治体の首長であろう)が「これから成人になる皆さんは、大きな夢を持って…」などという紋切り型の話をしていたことだろう。若者だと何故夢を持たなければならないのかも大きな疑問なのだが、とにかく夢の話は続く。



 僕が「夢」という言葉に引っかかるものを感じるのは、それが「半ば(若しくはそれ以上)実現不可能な願望」を指して使われる場合が多いからだ。ビトンのバックを買うことは夢でも何でもないが、都内に一戸建ての家を建てるとなると「夢のマイホーム」となる。ドリームジャンボ宝くじも「夢を買う」行為の一つだ。
 「夢」という言葉には、どこか「それが実現しなかったとしても仕方がない」という諦めのニュアンスがついて回っている。しかし、もっと厄介なのは、この言葉が「達成したい(もしくはするべき)目標」という意味で使用される場合がままあることだ。意図的なのか無意識なのか、人はよく「夢」と「目標」を混同する。もう少し考えてみると、目標の中でも実現の可能性が低く(もしくは難易度が高く)、最終的・究極的な目標になりうるようなものを指して「夢」という場合が多いように思われる。けれど、その割には「夢」にはどこか甘い、叙情的な響きがある。その語感が、「夢」という名の最終目標の現実味を失わせ、僕達からそのこと自体を遠ざけるように作用しているように思われるのだ。



 「目標」という言葉には「夢」にある甘美さはなく、かなりクールでドライな感じがする。自分が設定したものであろうと、他人から押しつけられたものであろうと、「目標」というものにはある種の現実感がある。そして、その実現のための道筋としていくつかの段階が想定され、各段階でするべきことは何かを明確化するという具合に、自然と思考に一定の方向性が出てくる。そういう具体的なことが見えてくるのが「夢」との大きな違いではないか。



 この前の日記で触れた第三舞台という劇団は、早稲田大学の学生サークル劇団としてスタートした。しかし、学内のテントで行われた旗揚げ公演の段階から、主宰者の鴻上氏(当然だが当時はまだ学生である)は「この劇団で紀伊國屋ホールに出る」と言っていたという。普通に考えるとこれは「夢」なのだが、鴻上氏はあくまでも「本気」だったと後に自分の戯曲集のあとがきに書いている。
 そして、旗揚げから5年あまりで、彼と第三舞台はこの「夢」を実現した。劇団としては驚異的な早さだった。このことについて、鴻上氏は最近作『ファントム・ペイン』の会場で配布された「ごあいさつ」という文章で以下のように書いている。


「正直に言えば、創作欲や演劇への情熱だけでは、旗揚げからのテンションは維持できなかったろうと思っています。演劇で食うこと。俳優、スタッフあわせて演劇で食うこと。劇団として経済的に自立すること。その目標があったからこそ、お盆と正月以外、ずっとケイコできたのです。」


 もし鴻上氏が「演劇で食うこと」を「夢」と捉えていたなら、もしかすると第三舞台は続いていなかったかも知れないと思う。何故なら、「演劇で食うこと」はそうそう簡単に実現できることではなく、ましてやぽっと出の学生劇団にとっては殆ど不可能に近いと思えることだからだ。不可能に挑戦すると言葉で言うのは容易いが、多くの場合それは「挫折」という結末を迎える。だから人は意識的に、あるいは無意識のうちにそれを避けるのだ。しかし、それを「目標」として認識した時、そこに僅かでも実現可能性が意識される。ここがまさにポイントだと思う。可能性があるのなら、人はそれに向けて戦略を立て、行動することが出来るからだ。途中の過程で戦略の練り直しや目標そのものの見直しなどの試行錯誤は当然あり得るが、少なくとも漠然と「夢」を語っているのと比べれば、人は着実に先に進めるのである。



 例えば、戦争のない世界を作る。「You may say I`m a dreamer」とかのジョン・レノンは歌った。だが、それを「夢」のような話と思わずに「目標」だと多くの人々が認識すれば、その実現のためには一体何が欠けているのかが自ずと見えてくるということである。
 そしてもう一つ、目標の実現を諦めない精神的な持久力が必要とされるだろう。それらがあれば、「戦争のない世界」は、確実に存在することの出来る世界として、僕達の未来に登場してくる筈だ。



 かつて鴻上氏は芝居の台詞やエッセイで、好んで次のようなフレーズを使っていた。
「才能とは、夢を見続ける力のことである。」
 しかし、これは些か希望的観測を含み、ロマンティシズムに偏った表現である。本当はこう言い換えなければならないだろう。
「才能とは、目標を実現できる力のことである。」
 その鴻上氏の『ファントム・ペイン』の「ごあいさつ」は、次のように続く。


「…僕達は劇団を作り、演劇で食うという目標を達成しました。しかし、その後も人生は続きます。物語は終わっても、人生も世界も終わらないのです。次の目標は何か?(中略)とりあえずの目標を達成した後、人はどうしたらいいのか。次のとりあえずの目標を作るのか、本当の目標を探すのか。」


 これは応用問題である。同時に、生きていく上で誰もがぶつかる可能性のある問題である。その答えを手にすることが、まさに究極の目標=「夢」であるとさえ言えるかも知れない。
 そして、この「夢」を追い求めることが出来るのは、いうまでもなく「目標」を実現できる力を持った者、すなわち、‘才能’を持っている者の特権であるのは、冷徹な事実である。


hajime |MAILHomePage

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