思考過多の記録
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2002年01月13日(日) 明日はあるか?

 不況で経済がうまくいかず、将来に対する不安も日に日に増大していて、何となく暗い雰囲気がこの国の社会を覆っている。その反動であろうが、こういうときこそ元気を出して、この厳しい状況を乗り切っていこう、という‘空元気’を奨励する主張が結構出てきている。昨年ヒットした『明日があるさ』という歌やそれに便乗した同名のドラマなどはその象徴的な事例であろうか。
 また、少々古い話だが、昨年末の紅白歌合戦でも「夢」がテーマになっていて、出場した歌手全員に、歌う前に「自分の夢」について何かしら語らせるという、いかにもNHK的な演出がされていたものだ。



 こういう時代だからこそ、夢を持って前向きに生きていこう、という主張は悪くはないだろう。けれど、どうにも鼻についてしまうのは僕だけだろうか。確かに夢を持つのは素晴らしいことだ。しかし、その主張の裏には、夢を持たない、あるいは持てない人々は、持っている人々に比べてどこか劣っているという無意識の前提があるように思われる。
 もっと言えば、夢を持って前向きに人生を切り開いていくのがベストというのは、「グローバリゼーション」でお馴染みのアメリカ流の考え方=「アメリカン・ドリームの思想」である。成る程、あの国はそうやって発展し、富と力を独占する世界一の超大国になった。けれど、その過程で国内においては貧富の格差の増大を招き、またその構造はアメリカ式のやり方を取り入れた世界の国々の内部に、そっくりそのまま再生産された。また、「世界」という大きな枠組みで見たときにも、国や地域間の格差の著しい増大をもたらし、これが昨秋のテロ事件の遠因になっていることは疑う余地がない。



 では、貧しい人々は夢を持たなかったから、または夢を実現できなかったから敗者になったのだろうか。別の言い方をすれば、彼等は夢を持たなかったが故に生きることに前向きではなく、その結果としてもたらされた現在の彼等の地位はそれに相応しいものであるといえるのだろうか。僕は必ずしもそうだとは思わない。もしそうだと僕達が思えるなら、それは僕達がより深く「アメリカン・ドリームの思想」に毒されていることの証拠である。
 夢を持たなくても、またことさらに前向きにならなくても、生きていくこと、生き延びていくことはそれだけで大変なことである。それに、一件前向きに見える人も、そうでない人も、必死で生きている人もいれば、惰性で毎日を過ごしている人もいる。また、惰性に流れている人の中にも、そこから抜け出そうとして抜け出せない人もいれば、自ら進んで流れに身を任せている人もいる。つまり、一見して「前向き」で「夢」を持っているように見えない人々の中にも、いろいろな在り方があるということだ。



 10年くらい前に学校教育の評価項目の中で「関心・意欲・態度」というのが話題になったことがある。ごく簡単に言ってしまうと、これはその教科の内容それ自体を理解しているかではなく、教科の内容に「関心」を持ち、「意欲」的に取り組む「態度」を持っているかを見るための観点なのだ。しかし、こういうことは数値化して測ることは非常に難しい。そこで教師達は例えば普段の授業で頻繁に手を挙げて発表をするかとか、自分から進んで〜をやろうとしているかとか、そういう独自の観点から普段の生徒の行動を観察して評価している。しかし、この評価の仕方は、例えば引っ込み思案や恥ずかしがり屋の子供、自分をアピールできない子供には著しく不利だ。
 知育偏重の反省から鳴り物入りで導入されたこの評価の観点は、いろいろな批判に晒され、また現場では半ば無視され、今も細々と生き残ってはいるが、結局成果よりも弊害の方が大きかったと言っていいだろう。



 現在の世の中あげての「前向きごっこ」でも、これと同じ現象が起きていると言えないだろうか。「引き籠もり」が「甘ったれ」の烙印を押され、優しさが生き残りの足枷になり、謙虚さが傲慢な誰かを助けてしまう世の中である。そんな世の中で前向きに生きるとはどういうことなのか。また、そんな世の中で語られる「夢」とはどういうものなのだろうか。
 前向きの思想、「アメリカンドリーム」の本場の国では、自分を前向きで明るい人間にするために、生来そうでない人は薬を使って性格を変えているという。そういう薬はわざわざ医者に処方されずとも、誰でも気軽に買えるようになっているそうだ。そうまでして前向きにならなければ、かの国では生き残れないのである。それをいいとか悪いとか言えないが、僕にとっては何とも居心地の悪い社会である。そういう社会では、前向きでない人の方が、ある意味で健全だったりする。



 繰り返すが、夢を持つことや前向きに生きることは悪いことではない。
 だが、今世の中に満ちているのは「夢を持とう!」「前向きに生きよう!」というかけ声ばかりである。そうできない人がいたときに、「元気を出そう」というだけでは問題は解決しないのではないか。
 夢を持ちたくても持てない人が持てるようにするにはどうすればいいのか、下を見ている人が前向きになれるようにするにはどんな社会の仕組みの変革が必要なのか、そういったことをみんなで考え、論議していく。その方が声高に「ポジティブシンキング」を叫んで‘空元気’を強要するよりもずっと大切なことであると僕は思う。



 明日は確かにあるけれど、それは必ずしもよりよい状態をもたらしはしない。だから、夢を語れなければ、語らなければいい。前向きになれなければ、蹲ればいい。そういう状況なのだというクールな判断が出来るうちは、明日も明後日も、まだまだ生き延びられる筈である。


hajime |MAILHomePage

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