思考過多の記録
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2002年01月02日(水) 奇蹟の結婚

 正月ということで、元日から家で立て続けに映画を2本も見た。
 といっても、テレビでたまたま放映していたものだったし、どちらも以前に見たことのあるものだった。けれど、ストーリーを知っていればいたで別の楽しみ方ができるものだし、親戚が大勢押し掛けてきた後でいい加減頭が痺れたような状態だったので、何の気なしに結局最後まで見ることになってしまった。



 「男はつらいよ 寅次郎夢枕」と「ローマの休日」。時代も国も違うこの2つのラブ・ストーリーを見ているうちに、両作品の奇妙な共通点に気が付いた。どちらも主人公の叶わぬ恋を描いているのだが、片思いが破れていく話ではなく、心が通い合い、恋愛としては成立しているにもかかわらず、様々な外的要因によって二人が一緒になることができないという筋立てになっているのだ。二人は惹かれ合っているのに、結ばれない。それが許されない状況。その切なさに人々は惹かれるのであろう。



 確かに美しい「恋」の物語だ。だが、僕はそれを見ながら、じゃあこの恋愛が精神面だけではなく具体的に成立したら、この二人はどうなっていくのだろうかと考えた。
 「男はつらいよ」で、女手一つで美容院を切り盛りする幼馴染みと結婚した寅さんは、どんな結婚生活を営むのか。「ローマの休日」でアメリカの新聞記者と某国の王女は、結婚後どんな宮廷生活を送ることになるのか。具体的に考え始めると、二組の恋人達の前途は決して明るくはないだろうと僕には思えてくるのだ。
 放浪を愛し、旅を住処とする寅さんは、定住生活の中で果たして精神的な安寧を得られるのか。長い王族の生活に慣れた王女と、マスコミで働くことで手も精神も汚し、気ままな一人暮らしが染みついているアメリカ人の男の、半ば幽閉された様な宮廷内での共同生活は、二人に何をもたらすのか。
 そう考えたとき、これらの物語は恋愛がそれ自体としては完成していながら、現実世界のように次の段階に至らないからこそ、すなわち物語として未完であるからこそ美しいのだということが分かってくる。「ロミオとジュリエット」の古より、人は恋愛を完成された形のまま封じることを好み、その切なさ、哀しさ、儚さに惹かれ、その世界に陶酔する。物語は、それ故にいつでも未完だ。お伽噺の王子様とお姫様の恋も、それが叶った段階で終わる。その後のことは、大抵の場合「幸せに暮らしましたとさ」という具合にはぐらかされてしまうのだ。



 勿論、現実にはその先があり、恋愛を完成させた二人は「交際」によってある程度お互いの実像と向き合う段階に進み、それをクリアすると「結婚」=「共同生活」という、さらに深く、かつ日常的、具体的で些末な接触の段階へと進む。そこは「恋愛」とは全く違った世界である。この状況を一見リアルに描き、しかし最後は再びある種のお伽噺の世界でまとめてしまうのがテレビドラマである。言わずもがなであるが、現実はドラマよりもシビアだ。
 「恋愛」という幻想を成立させることのできた相手が、実生活においても有用なパートナーたりうる確率は、そう高くはないようだ。ラブラブだったカップルは些細な喧嘩が元で分かれるし、自分にはこの人しかいないと思っていても、後から現れた別の誰かに心を奪われるといったことは日常茶飯事だ。
 それでもなお、その二つはしばしば無条件に同一視され、恋愛で盲目となったまま結婚に突っ走るカップルは後を絶たない。
 「恋愛」を飛ばして条件面でのマッチングに重点を置く見合いというシステムでお互いを知り、注意深く相手の人間性と自分との相性を確認した上で結婚に踏み切ったとしても、多くの男女にとって、結婚後に相手が豹変する、もしくは二人の関係性が変質していく事態は避けがたい。



 かくして、多くの夫婦が破綻する。離婚というはっきりした形で現れるものもあるが、表面上は体裁を保っていても実質的には崩壊している夫婦は数知れない。しかしそういう夫婦にも、殆どの場合「恋愛」や「交際」の時期があった筈なのである。そして、その各段階において、ある形が完成していたからこそ、二人が一緒になる=「結婚」という結論に至ったのではなかったか。そして、それが結果として成功していなかったとすれば、問題がどこにあったのかは自ずと明らかである。すなわち、「恋愛」を完成させることのできた二人が、そのまま「結婚」という新たな物語の主人公たりえなかったということだ。俗に言う「恋愛の対象と、実際に結婚する相手は違う」ということである。
 だからといって、人は恋愛のあの素晴らしい時間を犠牲にして、「結婚」の成功のためだけに、一見すると無味乾燥な、何の高揚感も陶酔感もない平板な時期を過ごすことに耐えるのをよしとするだろうか。また、「結婚」という状態に相応しい相手のみが、真に自分にとって最良のパートナーなのだろうか。



 「結婚は人生の墓場」という名言は、まさにこの状況をさして語られる。けれど、「恋愛」の高揚の後に始まるこの長い人生の段階にも、きっと豊穣な時間があるに違いないと僕は思っている。



 こう考えてくると、結婚とは「恋愛」という物語の未完故の美しさに浸りつつ、その次に続く「生活」という新たな物語を破綻することなく継続できる二人によってのみ真に可能な営みだと言うことができるだろう。言うまでもなくこの二つの状況は矛盾しており、スムーズに移行するのは容易なことではないだろう。その意味で、恋人達が「結婚」に至るのは奇蹟であるといっても過言ではないように僕には思える。
 統計によれば、日本では1分に満たない間隔に1組の割合で夫婦が誕生しているそうだ。奇蹟はそんなに頻繁に起きているのだ。勿論、彼等のすべてが奇蹟を完璧に成し遂げているのではなく、その証拠に2分に満たない間隔に1組の夫婦が離婚している。
 それでもなお、結婚にたどり着く人々は、少なくとも奇蹟を起こす可能性とその力を与えられた存在だ。それだけでも祝福される価値がある人々だとも言えるだろう。



 蛇足ではあるが、「恋愛」を完成させられない僕が、その奇蹟を起こす力を持たないことは言うまでもない。


hajime |MAILHomePage

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