思考過多の記録
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2001年12月30日(日) 普通の国・ニッポン

 平和な日本のクリスマスに突如出没した不審船の騒動は、まだ記憶に新しい。銃声や爆発音が響き渡った今年のニュースを締めくくるのにまさにうってつけともいえる出来事だった。



 世界中で争い事が絶えず、多くの人々の血が流れ、多くの人々が悲しみ、憎しみ合った中にあって、この国を襲った構造改革の嵐とそれに伴う不況、狂牛病騒ぎ、いくつかの凶悪犯罪等々は、人の血は流れてもそれは基本的にはこの国の内側での問題であり、争い事は海に浮かぶこの島の中に限られていた。
 同時多発テロの影響は経済面が主で、自衛隊が彼の地へ派遣されたことも、この国の多くの人々はどこか対岸の火事の話のように受け取っているように見えた。
 東シナ海に現れた不審船は、そんなこの国のどこか内向きで弛緩した雰囲気を変えるのに十分なインパクトを持っていた。



 不審船の正体や目的について云々するつもりはない。今メディアで語られていることは、おそらく大きく外れてはいないだろう。例によって、真相はずっと先まで、あるいは永久に謎のままかもしれない。
 僕が公開された一連の映像を見て感じたことは、正当防衛か否かは別として、これは紛れもなく「交戦」しているな、ということであった。不審船からは機関銃の音がしていて、弾が巡視船の船体に当たる音も生々しく聞こえていた。そして、巡視船から撃ち返す砲撃のリズミカルな音と、不審船に向かって飛んでいくいくつもの火花や光の帯は、僕達がこれまで映画やニュース映像で見てきた戦争のワンシーンと何ら変わることはなかった。
 港に帰ってきた巡視船の窓ガラスに開いたいくつもの穴は、確かにその船に向かってこの国の「外側」(=「敵」)から攻撃が加えられたのだということを雄弁に物語っていた。



 第2次大戦(太平洋戦争)終了後、今日に至るまでの五十数年間というもの、日本はどこの国からも銃を向けられたことはなかった。確かに、主に第3世界の国々で誘拐や強盗などの標的になったことはたくさんある。ペルーの大使公邸人質事件は記憶に新しいところだろう。けれど、その場合の相手はゲリラや強盗であり、狙われた日本人は大抵丸腰であった。そしてその理由は経済的なものであった。
 また、国連の任務で紛争地帯に入った日本人が命を落としたりするケースもあったが、これも日本人だから狙われたわけではなく、治安の悪化に伴う偶発的な事故である場合が殆どだった。



 理由ははっきりしている。この五十数年間、世界中で日本の軍隊によって殺害された人間は、ただの一人もいなかったからである。これは殆ど驚異的であると言っていい。そして、これこそ日本が世界に誇れる事実である。
 これを一国平和主義の結果だと詰る人々もいる。しかし、僕はそうは思わない。これは、政策がないといいつつも、曲がりなりにも憲法の制約と精神を守って、紛争や政治的な緊張に対しては軍事的介入を行わず、対話を促し、経済援助、人的・技術的支援等で解決を図ってきた日本外交の成果なのである。
 金と力にものを言わせて、「正義」の空爆で他国の土地をメチャメチャに破壊するどこぞの大国と比べて、一体どちらが国際平和に貢献していると言えるだろうか。
 日本のこうした姿勢は、国際的には概ね評価が得られている。そのことが、アメリカ軍のプレゼンスと並んで、どの国もあからさまに軍事力でこの国を脅かそうとしなかった理由だと思う。



 今回の不審船の事件で様相は少し、いや決定的に変わった。不審船は日本の海上保安庁の船からの銃撃を受け、沈没した。そして、相手国の人間と見られる二人の遺体が収容された。
 沈没については自爆説があり、また相手から撃ってきたのだし、こちらも傷付けられたのだから、撃ち返すのは正当防衛だという主張に一定の妥当性はあるだろう。また、北朝鮮の工作員と見られる二人の死因と、海保の攻撃の因果関係ははっきりしていない。
 けれども、日本の船の発射した弾によって、相手の船が被害を受け、人が死んだのは事実である。海保は軍隊ではなく警察に当たるものだが、それは本質的なことではない。
 この五十数年間で初めて、日本(の警察力)が他国(の工作活動=広い意味での軍事力)と正面からぶつかり、それによって相手に死者が出たのだ。



 以前、日本も自前の独立した軍隊を持ち、自国の国土を自力で守り、国際的な平和維持活動に制約なしで参加できるようにするべきだと主張していた政治家がいた。その政治家はそれこそが「普通の国」なのだとも言った。
 誰にも銃を向けたことがなかった日本が、外側から向けられた銃に応戦した。そして、相手を殺した。
 僕にはそれが、この国が「普通の国」になった瞬間だったと思えてならない。
 そして政治家達は、この国の安全を脅かす者(=「敵」)に対してもっと「普通」に銃が使えるようにするための法律を整備しようと言い始めている。
 銃声や砲声が轟き、僕発音が響き渡る。それにさらに軍事力で応える。血が流れるのが当然の世界。それがこの国の政治家達、いや僕達の国が目指すべき「普通の国」なのだとしたら、僕達は随分と物騒な「普通」の世界に住んでいるのだなあと思う。
 なるほど、確かにそれが現実なのかもしれない。そして、「普通」の世界に仲間入りができるのは喜ばしく、晴れがましいことなのであろう。いや、僕達がこの「普通」の世界で生きている以上、否応なくそうしなければならないのかも知れない。
 けれど、僕達の国は、それで何かを失う。
 「普通」であり、それ以上でもそれ以下でもない国に、もはや誇れるものは何もない。



 21世紀最初の年の終わりに起きたこの事件は、この先の日本の進路を暗示しているのかも知れない。それが杞憂であることを願うばかりである。


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