思考過多の記録
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皇太子妃が初めての子供を出産した昨日、そして今日と、マスコミは大騒ぎだった。国民全員が挙ってあの人の出産を待ちわび、その願いがようやく叶って、国中が祝賀ムードに溢れているかのようだった。 メディアには、彼女とその夫である皇太子の様々な関係者が登場し、お決まりのお祝いの言葉の後に、二人の結婚から出産に至る様々な他愛のないエピソードを語った。 今日にはお祝いの記帳が始まり、多くの人々が長蛇の列を作った。そして、何人もがカメラの前で喜びのコメントを述べていた。どう考えても皇族とは縁もゆかりもなさそうな人々が、異口同音に「他人事とは思えない」「自分の孫が生まれたように嬉しい」などと語っていた。
勿論、新しい命の誕生はおめでたいことである。また、あの夫婦のことを考えても、これまで様々なプレッシャーに耐えての出産である。素直に「よかったな」と思う気持ちもないわけではない。 しかし、よく考えてみると、あの昭和天皇の死去の前後にこの国を覆った「自粛」ムードと今回の「祝賀」ムードとは、表面的には全く違っても根本においては同じ性質のものだ。つまり、国民全員があの夫婦に第一子が誕生したことを祝っているという雰囲気が全体を支配し、まるで祝っていないと日本人ではないかのような感じになるのだ。 この国を支配している「祝賀」ムードに参加しない人間は日本国民に非ずといわんばかりの暗黙のプレッシャーは何とかならないものだろうか。
よく考えてみると、あの夫婦に子供が生まれたからといって、銀行の不良債権の問題が解決するわけでもないし、大企業のリストラ策が白紙撤回されるわけでもない。年金制度は崩壊しようとしているし、健康保険の自己負担割合が元に戻ることもないし、失業率が下がるわけでもない。早い話が、あの家族やその一族の消長と、この国の将来とは何の関係もないのだ。極端な話、あの家族が存在しなくてもこの国は成り立つ。それなのに、皇室とこの国の発展を同時に祈念するとコメントを述べる人が後を絶たないのはどうしたことだろう。そんな風に思われて一番困惑しているのは、実は他ならぬ皇室なのではないかと、僕は常々思っている。
あの夫婦が結婚してからここまでの記者会見の模様をテレビでやっていた。確かにあの二人はいつも笑顔で受け答えをしていた。だが、その笑顔はいつも、まるで顔面に張り付いたような不自然さを持っていた。いってみれば、「笑顔」という能面を被らされているようだった。 そして、たとえ夫婦のことなどの一見プライベートな領域の質問に対する答えであっても、彼等の言葉は生身の人間のそれではなかった。決して機械的ではないのに感情というものが巧みに隠蔽された、何とも薄気味の悪い言葉なのだった。
これはなにも彼等のせいではない。彼等にそう振る舞うようにし向けているのは、他ならぬ国民なのだ。この国では、あの一族が個人的な意思を表明することはできない。それは、あの一族と戦争を巡る歴史の結果である。 だから彼等は、人間でありながら、人間ではない存在なのだ。職業選択の自由も、移動の自由も、選挙権もない。個人的な意見を持つことはできても、それを表明することは許されない。恋愛の自由も著しく制限されている。 その上、彼等は「家族」「夫婦」という関係においてまで、国民に模範を示さなければならないのだ。本来プライベートの領域に属する部分でさえ、常に「国民」に監視されているのである。しかも、「国民」に悪意はない。いや、むしろあの一族に対して親しみを持ったり、敬愛の念すら抱いている。そうした「善意」の人々を前に、「いい夫婦」「いい親子」でいなければならない。勿論、生まれる子供はみんな「いい子」「丈夫な子」で「すくすくと育」たなければならないのだ。イギリス王室のようなゴシップなど、この国では決して許されないだろう。 殆ど窒息しそうなこの状況から生涯逃れることはできないとすれば、彼等に求められることはただ一つ、朝起きてから夜寝るまで、「自分」というものを捨て去ることである。
雅子さんも皇太子も、生身の人間としてそこに存在している。しかし、彼等を人間とは呼べない。彼等は生命体にして、一つの「機関」である。そして、今後死ぬまでそうであることを強いられる。 そういう世界のただ中に、あの子は生まれた。彼女もまた、両親と同じ運命をたどる。それは人間としての彼女にとって悲劇以外の何ものでもない。
善意の日本国民によって、あの一族は人間性を奪われた世界に幽閉されている。それでも彼等は、常に国民の前では一切の感情を殺し、笑顔でいなくてはならない。 彼等こそこの国で一番不幸な家族なのだと、僕には思えてならない。
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