思考過多の記録
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| 2001年11月18日(日) |
「さよなら」は別れの言葉じゃなくて… |
どんな関係の人とであろうと、出会いがあれば、当然別れがある。肉親、友人、恋人、配偶者といった比較的関係の深い人達にせよ、単なる知り合い、職場の同僚、顧客、取引相手といった自分と関係性の比較的薄い人達にせよ、一旦出会ってしまった以上、いつかはその関係が終了する日が来ることは必然である。それはある日突然訪れることもあるし、前もって予告されていることもある。相手が自分にとって好ましい人物であるか否かを問わず、人は必ず出会った相手と別れなければならない。
ある程度長く続くと予想された関係が、何か突発的な事故や予想外の出来事によって、不意に途切れてしまう場合もある。相手もしくは自分の死という形で終わるのも、この範疇にはいる。ある程度前から予測できたり、予告されいてたりすれば、人は心の準備を自分の中で徐々に行っておくことができる。しかし、そうでない場合、突如としてやってきた別れと人は強引に向き合わされることになる。 突然であれ、予告されていたことであれ、それまであった関係性がなくなるという事態に直面して初めて、人はその相手の存在と自分の中での相手の占める位置や重み、そしてその喪失感を明確に意識する。所謂「ぽっかりと穴が空く」という感覚である。
僕は「さよなら」という言葉が、あらゆる日本語の中でおそらく一番嫌いだ。この言葉を口にした時、人は否応なしに相手との関係の終了という事実を突きつけられることになるからである。その意味合いを薄めるために、「さよなら。またいつか、どこかで」という曖昧な約束を装った言葉を添える場合もある。しかし、多くの場合、「いつか、どこか」は二度と巡ってこない。
どんな関係の相手であれ、出会ってしまった人間とは、いつか確実に別れなければならないという事実は、僕に出会いの喜びの半分を奪ってしまった。「初めまして」と言った瞬間から、その相手が自分にとって好ましい人間であればあるほど、すなわち、その出会いがいいものであればあるほど、僕はその相手との「さよなら」に怯えてしまうのだ。
だけれども、一度出会った相手とは決して別れないということになると、それはそれで困ったことになる。人間はその関係性の中で日々変化し、成長していくものである。もし関係性の更新がなければ、人は皆新しいことへの挑戦をやめ、何もかもが既知で刺激のない生活に埋没して行くであろう。ある意味で楽だが停滞した関係性に安住していると、その人が自分では気が付かない可能性や、まだ発揮されていない才能を見いだせないままに終わることになる。それはその人にとっても、社会(集団)にとっても損失だ。それ故人は、主体的にせよ外的な要因によってにせよ、自分を取り巻く関係性を少しずつ変化させることで、「ぽっかりと空いた穴」を埋め、何とか生き延びてきたのだとも言えるだろう。 昔見た芝居(「青い実を食べた」市堂令)の中の台詞に、 「不思議なものですね。今まであったものがなくなると、初めのうちは悲しむけれど、そのうち悲しんでいたことを忘れてしまって、忘れたことさえも忘れてしまうんですね」という内容のものがあった。忘却もまた、喪失感から脱却し、失われたものの呪縛から人間を解き放つために有効に作用する。
これは人間関係だけの話ではない。住み慣れた故郷を離れる時、愛用していたものをなくしてしたり壊したりした時、人はこれと同じ作業を自分の中で行う。ある作家はこれを「悲哀の仕事」と名付けた。この世界に永遠であるものが何一つない以上、喪失感からの脱却はどうしても必要なことだ。ぽっかりと空いた穴を意識しつつも、それを新たな関係性の構築の礎に変えていく強さを持つこと。「さよなら」はそれを宣言する言葉なのであろう。
そう頭で理解してはいても、僕は「さよなら」が嫌いだ。どんな人にこの言葉を言う時でも、僕は胸の軋みを押さえることができない。まだまだ人間ができていない証拠なのかも知れない。
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