思考過多の記録
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2001年11月06日(火) 真っ直ぐな線

 このサイトを通じて知り合ったとある女性が、ある日自分の日記に「この歳になって初めて信じることができる人に出会った」という趣旨のことを書いているのを読んで、僕は愕然とした。僕はこれまでそんなことを真剣に考えたことがなかったからである。
 彼女が何故これまで人を信じることができなかったのか、詳しい事情を僕は知らない。おそらく僕などには想像できない何かがあったのだろう。全くの推測だが、彼女は僕が恋愛や未来に対して絶望しているのと同じように、人間の「関係性」に絶望しているのだろう。いや、正確に言えば絶望していたのだ。そしてそれは、おそらく彼女の「関係性」に対する誠実さと、絶望の裏返しの大きな希望を持っていることの現れであろう。
 僕達は実に様々な「関係性」を結んでいる。友人をとってみても、「親友」「悪友」「仲良し」「知り合いより少し仲がいい人」…といった順序を自分の中で無意識のうちに付けている。そしてそれは日々少しずつ変化している。昨日の敵は今日の友、という言葉もある通り、些細なきっかけで犬猿の仲だった筈の人と親友になったり、結婚してしまったりすることさえあるし、その逆もまたよくあることだ。そういう極端な場合だけではなく、ある人の自分の中での位置付けが微妙に変化するのは日常茶飯事だ。それもまた些細なきっかけである場合が多い。たとえ本人にその意図がなくても、その人の態度や言葉遣いによって、親友だと思っていた人間に裏切られたと感じる場面もあるだろう。その場合、その人の自分の中での地位は確実に変化し、それに伴ってその人に対する自分の態度も変化する。それを察した相手との「関係性」は何らかの影響を被らざるを得なくなる。

 総じて人間関係とは狐と狸の化かし合いである。そこに利害関係による結びつきが加わるので(というよりも、日常の人間関係の主流はむしろそちらである)、問題はよりややこしくなる。だから、世の中を器用に渡っていくために、または自己防衛本能の結果として、僕達の「関係性」はより浅く、表面的で密度の薄いものが中心になる。相手を信じられるか否かという問いは、日常の中で風化していく。もしその問いが日常の中で意味を持つとすれば、それは相手が自分に利益をもたらしてくれる人間として、または最低限自分の敵に回らないという意味において信じることができるか否か、ということでしかない。

 僕は彼女の日記をよく読むのだが、その中で彼女は、そういう表面的で通り一遍の「関係性」に居心地の悪さを人一倍強く感じているように僕には思える。HPやメールの文面だけから判断して彼女と「関係性」を結ぼうとする人達に対する彼女の感想などからもそれを感じる。それがある種の‘一方通行’の「関係性」だと彼女は見抜いているからだ。

 彼女の日記には、彼女を巡る実に様々な「関係性」が描かれている。それは彼女が意識的にか無意識のうちにか、「関係性」に並々ならぬ関心を抱いていることを表している。それは彼女の日記が当初「言葉」という人間関係のツールを主題にしていたことからもうかがえる。その中で彼女は本当に信じられる誰かとの完璧な「関係性」を求めているのだと僕には思える。
 勿論、純粋で完全な「関係性」などこの世の中に存在しない。そんなことくらい彼女も分かっているだろう。それでもその存在を信じ、望みを棄てずに求め続ける。彼女がこれまで「本当に信じられる人」に巡り会わなかった本当の理由は、おそらくそこにあるのだ。
 そして、そんな彼女の生き方・考え方に僕は敬意を表したいと思う。

 というここまでの文章は、彼女の姿をどこまで捉えているのだろう。決めつけられるのが大嫌いな(というのもある種の決めつけだが)彼女のこと、これを読んで怒っているかもしれない。けれど、それは僕と彼女の「関係性」が未成熟なためであるとご理解いただきたいと思う。そうやって誤解を少しずつ解きながら、「関係性」は徐々に変化・進化(深化)していくしかないのだから。


 真っ直ぐな線を引いてごらん
 真っ直ぐな線なんて引けやしないよ
 真っ直ぐな定規をたどらなきゃね

 あんたの胸の扉から あたしの胸の扉まで
 ただの真っ直ぐな線を引いてみて
 それがただ一つの願い
 (「真っ直ぐな線」中島みゆき)


hajime |MAILHomePage

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