思考過多の記録
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| 2001年11月03日(土) |
明日のことは分からない |
言うまでもないことだが、人はこれから自分や世界がどうなるの かを知らない。後になって「ああしておけばよかった」「こうして おいて正解だった」と分かるのだが、それらは全て結果論である。 将来自分がどうなってしまうのか分からないということは、人を不 安にさせる。見えない未来を楽観的に描けばそれが希望になり、逆 に悲観的に照射すればそれは絶望と呼ばれる。多くの人々は、この 2つの状態の狭間のグレーゾーンで揺れ動く。 明日が今日の延長である保証はどこにもない。昨日の繰り返しに 見える今日という1日の奥底にも、変化は確実に忍び寄っている。 しかし、世界や自分がどこに向かっていくのかを正確に言い当てら れる者はいない。生きているということは、それ自体不安なのであ る。
かくして、人は宗教を発明し、それに縋る。この世界に「神」 もしくはその残像を探し出し、その予言に耳を傾ける。この世に現 れた「神」は様々な形をしている。ある人にとってそれは「占い」 であり、ある人にとっては「メディア」であり、「科学」であり、 「親」であり、「アーティスト」であり、「カリスマ」である。 勿論本物の(?)「神様」であったりもする。自分が信じる神の描 き出す未来を信じ、その世界に生きていくと決めてしまえば、取り 敢えず「未来」の時間の中にその人間は居場所を見出すことになる。 同時にそれは、現在の自分の位地を(その世界の中で)正確に教え てくれる。人は先の見えない不安からつかの間でも解放される。
しかし、繰り返すが、未来を正確に見通せる者はいない。創造主 ですら、自らの最高の作品であった筈の人間の増長を予測できず、 大洪水を起こして調整せざるを得なかった(現状を見る限り、それ すらも失敗に終わっている)。信じていた「未来」と現実にやって きた未来は、ある場合には微妙に、またある場合には著しく異なっ ている。初めのうちは何とか取り繕うことも出来ようが、時が立つ につれてそのズレは決定的になるだろう。 その時、人が取る態度は概ね2つ。すなわち、「神」を見限るか、 「現実」を見限るかである。「神」を見限った人の中には、「未来」 それ自体から背を向けて、現在を生きることにより大きな価値を見 出す者もいれば、また別の「神」を探し出そうとする者もいるだろ う。また、現実を見限った者の中にも、新たな「神」の提示する 「未来」に望みを託そうとする者と、「神」に頼らず現実を「未来」 の姿に変えてしまおうとする者とが出てくる。僕にはどの道がより よいものなのか分からないし、その判断をすることは出来ない。確 かなことは、どの目論見も完全に成功しはしないということだ。 こうして人は永遠に未来についての希望と絶望の狭間を揺れ動く宿 命にある。
人々は性懲りもなく「未来」を見ようとし、様々な想像図を描き 出す。またその精度を上げようと躍起になり、より確からしい「未 来」を語る「神」を探す。また自分にとってより望ましい「未来」 を求め、それにしがみつく。そうしてもなお、不安からは逃れられ ない。そのことが様々な悲喜劇を生み、僕達の人生を彩る。しかし、 本当に正確な「未来」が見えていたとしたら、果たして人は生きよ うとするだろうか。どんなに悲惨な運命が今の幸福の絶頂の向こう 側に待っていようと、また救いようのない現在がある日突然終わり を告げて新しい時代の扉が開かれることになろうと、それを知らな いからこそ僕達は今日を生きてしまう。そうして人は生き延びてい るのだと思う。
明日なき人々にも、確実に明日はやってくる。それがどんな明日 なのか誰も知らない。それが生命力の源である。未来が見えない ことだけが、人間の未来を約束する。何とも皮肉な仕掛けである。 しかしそれは「神」の仕業ではなく、他でもない人間が長い歴史の 中で無意識のうちに自らの中に組み込み、発達させてきた仕掛けな のだ。それに絡め取られてもがいている人間は、神など必要としな い非常に狡猾な存在か、もしくは神さえ見捨てる救いようのない愚 かな存在かのいずれかであると言えるだろう。 この人間に本当に未来はあるのか。勿論それは誰にも分からない。
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