思考過多の記録
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| 2001年10月26日(金) |
若くない僕が歩き始めるために |
僕がもっと若い頃、時間というものはいつまでも有り余っているように感じられたものだ。自分がやがて年老いていくことは頭では理解できても、実感としては全く分からなかったのだ。勇気がなくて踏み切れなかったことや、面倒なので後回しにしていたことなどは、いつか実行に移せる日が来ると漠然と思っていた。時間と体力と気力の永続性に対する無根拠な信仰。それが若さの特権の一つである。 けれど、当然いつかその特権を手放さなければならない時が来る。人生における自分の持ち時間は、かつて使ってしまった時間をあれ程上回っていたのに、いつの間にかそれがトントンになり、やがて完全にその比率は逆転する。その間にやるべきことをやれていれば問題はないのだが、まるで夏休みの宿題のように、「そのうちやればいいだろう」と思っているうちに徐々に積み残しが増えていき、気が付けば残り時間では到底片付かない量にまで膨れあがっている。しかも、いざやり残したことに手をつけようとすると、既に手遅れになっていたり、時機を逸していたりすることも多い。いつか読みたいと思って買った本は山積みになり、おそらく人生の残りを全て使ったとしても読み切れないであろう。一事が万事、その調子である。 冷静に考えてみると、僕の場合は、若い頃にやろうと思っていたことやここまではやっておきたいと思っていた到達点等は、その殆どが今からクリアしようとしても無理なものばかりだ。いくつかの目標は完全に放棄せざるを得なくなっている。「少年老い易く、学成り難し」という言葉の意味を、僕は今噛みしめている。 しかし、若い頃に比べると、少しは地に足が着いてきたかな、とも思う。無謀な冒険はあまりできなくなった代わりに、自分に欠けているものは何で、そのためにどうすればいいのかが前よりも分かるようになってきたのだ。ただそれをやることが楽しくて、闇雲にやり続けていた頃、情熱と体力と気力に突き動かされてどこまでも遠くに行けると思いこんでいた。自分の客観的な力量を知らず、そのためにかえって遠回りをしたり、全く違った方向に突き進もうとしたりしたものである。たとえ何も見えていなくても、ただ進んでいればどこかに辿り着けると無条件で信じられた時、確かに僕は幸せだったけれど、全てが終わった後には積み残しと挫折感だけが残った。その状態でもなお先に進もうとすれば、必然的に人は「思考過多」になる。無意識のうちにやっていたことについて思考し、それを深め、分析する。そして先に進むための方法と、その方向性を考えるのだ。肉体的な体力の減退を思考の「体力」で補うことによって、若い頃とは違った挑戦ができるようになるのだ。 残された命が有限である以上、それをいかに有効に使うかに知恵を絞る必要がある。若い頃には思い至ることができなかったその事実が、ある切実さをもって僕に迫る。僕は焦燥感に苛まれる。だが、その事実こそが、挫折と絶望を乗り越えて進む力を僕に与えてくれるのだ。 僕より若い誰かが幸せを手に入れ、僕より若い人達が僕がやろうとしてできなかったことよりさらに凄いことを成し遂げ、そこから先へ進もうとしている。僕は立ち止まり、蹲っているようにすら見えるかもしれない。それを後退と見る人もいるだろう。若い頃の僕からの心変わりを詰る人もいるだろう。「それ見たことか」と鼻で嗤う人もいるかもしれない。 けれど僕は進もうとしている。今いる場所より確実に先に行くために、今僕は立ち止まって世界と自分を見つめ直しているのだ。
僕は彼等から後れを取っているだろう。やはりこの文章はそのことの言い訳に過ぎないのだろうか?
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