思考過多の記録
DiaryINDEXpastwill


2001年10月23日(火) 「情報」という煙幕

 海の向こうで戦争が始まってから2週間あまりが経過した。アメリカ軍のタリバンに対する攻撃は殆ど毎日のように行われている。アメリカのパシリを自ら志願して行うための、テロ対策特別措置法という名の自衛隊海外派兵法が衆議院で成立し、日本ではこの一件はある種の山場を越えたと思われている。最近ではトップニュースからも外れることが結構ある。空爆は毎日の日課のようになった。初日にはあんなに衝撃的だったことも、毎日繰り返されるうちにだんだん慣れてきて、まるで普通の出来事のような感覚になってくる。日本のメディア、特にNHKがアメリカ側から見た戦争を伝え続けていることも大きい。まるでアメリカという正義の味方がタリバンという悪人をやっつける海の向こうの戦争ゲームを、僕達は安全な場所から見物しているという感じなのだ。首都に落とす爆弾の発射スイッチを、画面を通じて僕達が操作しているかのような錯覚を伴いながら。戦局を伝えるニュースは、さながらビンラディンの逮捕を目的とするゲームの進行状況を、日々ゲーマーに確認させる画面のようだ。
 そんな気分になってくるもう一つの要因は、情報が溢れているように見えて、実は確実といえる情報が殆どないからだ。戦時下の報道規制を敷くアフガニスタンにはメディアは殆ど残っておらず、現地からの映像やレポートはごく限られている。その上、アメリカも報道管制を敷いているため、自分達に都合のいい情報しか流さない。空母から出撃する戦闘機や、パラシュートで降下する夥しい人数の特殊部隊の映像は公開しても、彼等が実際に何処で何をしているのか、何人の民間人が空爆で命を落としたのか、詳細はまるで分からない。タリバン側も同様である。お互いに自分対置に不利な情報は隠し、有利な情報を宣伝する。したがって、発表の何処までが真実でどこからがプロパガンダのための誇張なのかが判然としない。タリバンの外務大臣は亡命したのか、オマル師は生きているのか、アメリカのヘリの墜落は事故なのか撃墜されたのか、アメリカ軍に死者はいるのか全員無事なのか。「あったのか、なかったのか」という類の単純な事実関係についても、双方の発表は180°違うことは珍しくない。事実は一つの筈なのだが、それが僕達にはさっぱり見えてこないのだ。テレビは決まった時間に情報を流すけれど、それは当事者達によって世界に張られる煙幕を見せられるようなものだ。僕達は殆ど目隠しをされたような状態に置かれているといっていいだろう。
 僕達はよく人伝の情報で物事を判断する。マスメディアが流すものから噂話まで形態は様々だが、忘れてはいけないのは、情報をいくらたくさん集めても、事実そのものを知ることは非常に困難だということだ。人から聞いた話から判断して凄く嫌な奴だと思っていて、いざ会ってみると以外と気が合ってしまったりすることがあるだろう。勿論、その逆のケースもある。見えない部分を補う想像力や、事実と異なった印象を与えようとする発信者の意図的な操作を、情報はどうしても受けやすい。情報は、光のように直進して実物と寸分違わぬ像を結ぶことはあり得ないのである。
 勿論、自分の目で見たことですら、そこには見た人間の切り取り方が反映されるため、厳密な意味で「事実」とは言えない。それが何回も中継され、加工されて伝達される「情報」は、「起こったこと」を知る手がかりにはなり得ても、それで全てを知ったことにはならないだろう。やっかいなのは、それが「全てを知った」という錯覚を受け手に与えることだ。特に情報量が多くなればなる程、この傾向は顕著になる。
 僕達の目の前に広がる「情報」という煙幕の向こう側で一体何が起こっているのか。微かに煙に映る影を頼りに、僕達はそれを推測するしかない。本当のことは結局分からないのかも知れない。だが、せめて煙が晴れた時、僕の目に映るものをしっかりと見据えたいと思う。
 「情報」の向こう側に、僕は目を凝らす。


hajime |MAILHomePage

My追加