思考過多の記録
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| 2001年10月20日(土) |
「安全宣言」が示す危険性 |
狂牛病の話題が喧しい。つい最近までは海の向こうの話だとこの国の殆どの人間が思っていたのに、実は全くそうではなかったことが発覚した。僕がこの夏訪れたイギリスをはじめとするヨーロッパでは、口蹄疫と併せてかなり前に大問題になった。多くの牛が処分され、ブレア政権は安全宣言を出したが、その影響は今でも残っている。事実、あの8日間の旅行中に、牛肉や羊の肉、豚肉にはついぞお目にかからなかった。かの国々ではそれ程徹底した対策が施されているのだった。 日本ではついこの間国内最初の発症が確認されるまでは、「日本は大丈夫」との前提で何の対策も講じられていなかったのだ。原因といわれている肉骨粉が使用されていなかったというのならまだ話はわかる。だが、日本でもかなり前からそれは使用されていたという。であるならば、当然発症する確率はゼロではない。「日本は大丈夫」というのは何の根拠もない思い込みだったわけだ。その思い込みに従って「国内産の牛に対しては、狂牛病対策は特別に必要なし」という「対策」がとられ、その結果国内の牛から狂牛病が発症した。ということは、それ以前に出荷され、僕たちの口に入ってしまった牛肉は本当に安全だったのかという疑問が当然出てくる。これに対する国の納得のいく説明は、今もってされていない。 国が急ぎ、そして力を入れていることは、いかに消費者の牛肉に対する不安を取り除くかということだ。一刻も早く消費者が安心して牛肉を買えるようにしたいという一心で、大慌てで検査態勢を作った。ただ、あくまでも不安を取り除くことが目的なため、検査結果の公表は予備検査の段階、つまり疑わしいものの有無の公表はせず、詳しい検査で結果が確定したものを公表する方針だそうである。こうした動きを見ていると、農水省や厚生省、そして政治家達が誰のために働いているのかが如実に分かる。薬害エイズの時の厚生省もそうだった。たとえ国民の健康がどうなろうと、生産者や関連産業に打撃を与えることを回避する。それが彼らの至上命題なのだ。 狂牛病がヨーロッパで猛威をふるったのは数年前だ。しかし、その危険性はかなり前から指摘されていて、フランスなどでは10年くらい前からイギリスからの牛肉や飼料の輸入の禁止に踏み切っている。遅蒔きながらイギリスが狂牛病の人間への感染の危険性について発表した時からも既に5年が経過した。政府や政治家はその間「日本は大丈夫」「国産は安全」と言い続けいていただけだった。国内初の感染が確認された直後にも、自分の選挙区の生産者の利益を守ることに汲々とする国会議員が集まって、テレビカメラの前で焼き肉を食べるという最低最悪のパフォーマンスを嬉々として行う体たらくだ。 国民がそんな姿を見て本当に安心すると思っているのだろうか。もし本気でそう思っているのなら、彼らは政治家としての資質を疑われても仕方がないと僕は思う。ヨーロッパでその危険性が叫ばれた時点で、もし日本で発生したらどういう対策をとるべきなのか、そのためにはどんな準備が必要なのかといった問題を具体的に検討し、それを実行する。また生産者や消費者に注意を喚起し、肉骨粉などは生産の現場から排除していく。そうした手を打つのが本来の彼らの仕事ではないのか。こういうことに「絶対」ということはあり得ないのだから、もし起きてしまった場合にその影響を最小限にくい止めるための方策を事前に立てておくことが、本当に国民の安全を守るための責任ある対処方法というべきだろう。 国民が不安を持つと困るから、何も知らせず、何も手を打たず、「我が国は安全」と言い張るというのは、原子力行政などにも見られるこの国の為政者達の常套手段だ。「国民の健康と安全を守る」のではなく、「国民に健康で安全だと信じ込ませる」やり方である。国民の目と耳、ついでに口を塞いで彼らは国の政策を決定してきた。それで社会に無用の混乱が起こらなければそれでよしとしてきた。だから、案の定問題が起きると、対策は後手後手に回る。そして、「その時点では危険性は分からなかった」と責任を回避する。こんな国が「安全」であるわけがない。 18日から牛肉の一斉検査が始まり、そのことを理由に政府は早々と「安全宣言」を出した。これは、結局彼らの体質が変わっていないということを意味する。 病に冒されて脳細胞に異常を来し、足下がふらついているのは牛ではなく、この国そのものなのかも知れない。そしてまた、政府が「安全」だと言ったらそれを鵜呑みにして、そのうちにこの大騒ぎを忘れてしまう僕達国民もまた、同じ病に冒されているのだとは思いたくない。
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