思考過多の記録
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2001年10月12日(金) 未だ恋愛は始まらない

 僕の好きな劇作家・鴻上尚史氏はかつてエッセイや戯曲で「人間には2通りいる。恋愛のルールを守ろうとしても守れない人間と、破ろうとしても破れない人間だ。」と繰り返し書いていた。ある程度の年齢を重ねた今では、その言葉の意味が僕にも何となく分かる気がする。しかし、僕は僕自身の実感を込めてこう言いたい。「人間には2通りいる。恋愛を始めようとしなくても始まってしまう人間と、どんなに始めようとしても始められない人間だ」と。残念ながら僕は後者のタイプである。
 勿論僕も人の子なので、誰かを好きになったこともある。というより、どちらかというと惚れっぽい方だったと思う。しかし、何故かそれは僕の側からの一方的な片思い以上には発展しなかった。最もうまくいったケースで「友達以上、恋人未満」までである。ある程度仲良くなって、それ以上に踏み込もうとすると、相手はそれを察して巧みに身をかわす、というのがお決まりのパターンだった。駄目で元々で自分の気持ちを直接相手に伝えた場合でも、結果は全てのケースで本当に駄目だった。僕にとって、恋愛とは常に(その過程はともかく、結果としては)実りのないものだった。僕はいつもその入り口で躓いていたので、恋愛関係における楽しさやしんどさ、素晴らしさや残酷さ等々を、ついぞ体験する機会を持てなかったのである。
 その意味では、僕にとって、恋愛は始めようとしてもどうしても始められないものだった。今でもそうであり続けている。
 一方その逆のタイプ、「始めようとしなくても始まってしまう」人は僕の身近にもいる。また、その変形のパターンとして「始めようと思えば自然に始められる」というのもある。こうした人達に成功の理由を聞いてみると、当然いろいろな答えが返ってくるのだが、共通しているのは、変に力んだり構えたりしていないことである。彼等の恋愛の始まりの場合、きっかけは実に些細なことだったり、最初はそういうつもりはなかったりする。しかし、どうしたことかうまい具合にどちらかがリードして、またはお互いの暗黙の了解であったかのように、自然に2人は恋愛の扉をくぐるということになっているのだ。僕が何年かかってもどうしてもできないことを、ある人はこの数年の間に何回もやっていたりする。勿論そういう人は、一つ一つの恋愛はある一定の期間以上は継続していないことになるのだが、その都度また新たな恋愛を始めることができるのは、僕にはない能力だ。
 こういう人達と僕との違いは何なのか。外見上のこともあるだろう。しかし、一番の違いは、「恋愛に対して臆病になっていない」ということではないだろうか。自転車の補助輪を外して乗れるようになるまでを思い出して欲しい。倒れることに怯えると、自然と体全体に力が入ってしまう。すると、必然的にバランスを取りにくくなり、結果として本当に倒れやすくなってしまうのだ。恋愛も同じことだろう。誰しも愛する人とは特別な関係を結びたい。しかし、その成功を意識し、また失敗して傷付くことに怯えるあまり、変な力が入ってしまうのだ。その人を大切に思うあまり、その人の前で自然に振る舞えなかったり、特別な存在だとの意識が強すぎるあまり、自然な関係が結べなかったりするのである。当然、相手はそれを敏感に察知する。「友達」としてなら上手く関係が結べていたのに、「恋人」という関係に入ろうとすると妙にぎくしゃくしてしまっていたのは、「恋人」という関係性に怯え、それを上手く結べない自分自身に対しても怯えていたからなのだと思う。
 そして、その怯えの根底にあるのは、恋愛を始める相手とは、人間的に自分と合っている部分がかなりなければならないという思い込みと、しかしこれまで結果的にそういう相手と出会っていない(もしくは、相手がそう思ってくれなかった)という事実がある。相手に期待するものが徐々に大きくなっていたのかも知れない。しかし、関係性は自分1人で構築するものではない。また、関係性が先にあって、そこに対象となる人物を当てはめるものでもない。それを恋愛と呼ぶ者は誰もいないだろう。
 結局僕には、今でも恋愛の始め方が分からない。そして、そういう意識を持っている限り、おそらく一生分からないと思う。恋愛に限らず、僕は器用に人間関係を結べない人間なのだ。おそらくそれは、こうした思考の無限連鎖の中に僕が閉じこめられる傾向にあるからだろう。何も意識せず、失敗を恐れずに自然に関係を結べるようになればよいのだが、これまで受けた様々な傷がトラウマのようになって僕を苦しめる。それに、困ったことに僕はもう若くない。試行錯誤の時間はどんどんなくなってきているのだ。
 あと数年で僕は不惑の年齢を迎える。けれど、未だ僕の恋愛は始まらない。


hajime |MAILHomePage

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