思考過多の記録
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2001年09月08日(土) 「印象」という現象

 僕の会社の、職場は違うが同じフロアーで働いているある中年の男性社員は声が大きいため、よく部屋の仕切を越えて外部との電話でのやり取りや部下のと会話が聞こえてくる。僕はその人と一緒に仕事をしたことは一度もないし、その人がどんな性格や考え方なのかも知らない。だから現象面でしか語ることが出来ないのだが、その人の話し方を聞いていると、大抵の場合、相手に対して尊大で居丈高な態度をとっているように感じられるのだ。僕はその部署の仕事内容を知らないので、取引先との関係がどういうものか厳密には分からない。しかし端で聞いていると「外部の人に対して、何もそんな言い方をしなくても…」と思えるときが結構ある。本人にその意識があるかどうか定かではないが、常に相手を自分より下に見ているかのように受け取られそうな物言いなのだ。部下に指示や注意を与えるときの言動も同様である。
 その人にはおそらく悪気はなくて、与えられた仕事をきちんと滞りなく遂行するためには、部下や関連会社がちゃんと動いてくれなくては困る。だから何か問題が起きたらそれが大きくならないように、また起きるのを未然に防ぐために、厳しさと緊張感を持ってシビアに指示を与えているだけなのかも知れない。1つのチームの責任者という彼の立場からすればごく当たり前の行為である。それは認めるが、それにしてももう少し言葉の使い方や発し方があるだろうと思ってしまう。仕事には厳しさが必要だが、それと同じくらい「気持ちよく仕事をする」ということも大切である。また、部下が萎縮してしまっては、新しい発想や意見も出にくくなる。気分も奮い立たない。それは仕事の硬直化と職場の空気の沈滞を招き、仕事がうまくいかなくなる。すると彼はさらに厳しくハッパをかける…という悪循環に陥る可能性もある。僕がそんな彼に対して抱くイメージは「仕事の鬼」である。だが僕には、仕事とは相手との関係で進めていくものであり、その相手とはまさに喜怒哀楽を持つ血の通った生身の存在なのだということが彼の念頭にはないとしか思えない。そうでなければ、40を過ぎた大の大人が、あれ程自分の「怒」ばかりをストレートに相手にぶつけるとは考えにくい。
 僕はその人を誤解しているのかも知れない。そうだとすればなおさら、「印象」とは恐ろしいものだと思う。ちょっとした言葉の選び方、口調(声の高さや強弱、柔らかさ等)、表情(目の動き、笑顔の度合い等)、仕草といった情報を読み取ることで、人は相手がどんな人間なのか、自分にとって敵か味方か等を、出来るだけ短い時間で判断しようとする。テレビというメディアが怖いと言われる所以はそこにある。情報の発信者が本来伝えようとしたこと以外の様々な副次的な情報が伝わり、時にはそちらがメインの情報として受け取られてしまうことすらある。そんなわけで政治家などはとみにテレビ映りを気にするようになり、服装やロケーションなどの演出に余念がない。しかしそれでもなお、意図せざる情報を受け手が読み取ってしまうことは避けられないだろう。
 先日逮捕された眼鏡と髭の外務省の課長補佐は、逮捕前の取材でテレビカメラを向けられて「ふざけんじゃねーよ!いい加減にしろよ!」と怒鳴りつけ、マイクを振り払っていた。これを見た視聴者の殆どは、彼が尊大で傲慢な人物だという「印象」を持ったであろう。そして、逮捕後の報道の内容を見る限り、それはどうやら間違っていなかったらしい。官僚である彼にとっては、カメラを向けるマスコミも、その向こう側で彼を見つめている多くの国民も、蔑むべき対象だったのだ。そして、そう思っていることを隠す必要性を彼は感じていなかった。そういう輩からどんな「印象」を持たれようと、外務省という閉じた世界での彼の確固とした地位は揺るがないと彼は考えていたに違いない。‘公僕’としての自分が本来は仕えるべき相手であり、血の通った存在である国民の姿を、彼は全く見失っていた。それが公金(すなわち国民の税金)を私的に流用してはばからなかった彼のメンタリティーである。それが図らずも態度に出てしまったと考えても、あながち間違ってはいないと思う。
 人を「印象」で判断することには危険がつきまとう。誤解されやすい人もいるし、緊張のためにうまく言葉が出なかったり表情が強ばってしまったりする場合もあろう。しかし、そこになにがしかの真実が含まれていることも事実である。嘘の笑顔は見る人が見れば見破ることが出来るだろうし、怒りの裏に愛情が隠されているのが伝わるときもある。「印象」という表面的な現象を取り繕うことに労力を使うより、相手に対する自分の目線や気持ちを変えていくように勉めることの方が、遠回りなようではあっても、より本質的なことに思える。
 とはいえ、せっかくの相手に対する気持ちを、より効果的に見せる‘技術’はあるに越したことはない。同じことならよりよい「印象」を与える方がいいに決まっている。このあたりが人間関係の面白さというか難しさなのだと、「印象」で損をすることの多い僕はつくづく実感するのだ。


hajime |MAILHomePage

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