思考過多の記録
DiaryINDEXpastwill


2001年09月02日(日) 単純な世の中

 僕がこれまで書いてきた台詞の中で結構気に入っているもののひとつに、
「正義の味方が正義に味方するほど、この世の中は単純じゃない」
というものがある。
 話題としては些か古くなるが、小泉‘らいおんハート’総理が靖国神社に参拝した。彼が終戦の日の靖国参拝の意向を表明してから、国の内外で喧しい議論が起こったことは記憶に新しい。結局彼のとった行動は、批判の強い終戦の日より前に参拝し、神道形式のお参りをせず、公私の別は明らかにしないという、何とも中途半端なものだった。この問題は国内では一段落したように見えるものの、外交問題としては今なお尾を引いている。
 首相としての参拝を決意した理由を、彼自身は「国のために犠牲になった人の霊を慰めることは、ごく自然な感情ではないか」という趣旨の言葉で語っていたように記憶している。この参拝に対して世論は二分されていたが、マスメディアの報道を見る限りでは、賛成派の殆どの人はいうに及ばず、反対派の一部の人でさえ、彼のその発言に対して理解を示していたようだ。しかし、僕自身はそれに対して賛同しない。何故なら、先の大戦で犠牲になったのは、所謂「国のため」に戦って命を落とした人だけではないからだ。空襲や原爆の犠牲者などの非戦闘員や、朝鮮などから強制連行されて働かされていた人達の霊は、靖国にはない。この事実を知らない人が意外と多いので、先の首相の発言につい惑わされるのだ。靖国信者には、古くは戊辰戦争で明治政府のために戦って命を落とした官軍の兵士達の霊が祀られている。しかし、幕府側の犠牲者の霊は1人も祀られていない。理由は簡単だ。彼等は「国家」(明治新政府)、ひいては明治天皇に対する反逆者だと見なされたからである。あの神社はそういう場所なのだ。
 おまけにA級戦犯の問題がある。こちらはだいぶ報道されたので知っている人も多いだろうが、この件についても首相は「死んだ人に区別をつけるのはおかしい」という趣旨の反論をしていた。単純に考えればそうかもしれないと思わされる。しかし、A級戦犯とは、先の大戦で国民を戦争に巻き込み、その結果夥しい数の人々の命を奪うことになった責任者達のことだ。地獄に堕ちて当然と思えるそんな人々が、何故「神」として祀られなければならないのだろう。国のために戦ったと見なされれば、その罪は問わないのが靖国流らしい。また彼等は日本がアジアの国々を侵略したときの指導者だ。その霊に対して現在の日本の首相が祈りを捧げれば、侵略された側はどう思うか、そんなことは誰が考えてもすぐに分かることだ。それに対して「内政干渉だ」などという批判をすることはできない。戦争が絡む以上、靖国問題は常に国際問題なのである。
 僕が問題だと思うのは、こういう複雑な背景を無視して、先に挙げたようなごく分かりやすい、心情に訴えかけるような言葉でこの問題について語る首相の、政治家としてのあまりの無責任さと、そこに見え隠れする狡猾さである。一国を代表する立場なのだから、個人的な信念や心情を貫くということだけで行動することはできない。それが分かっていて敢えてああいう言辞を弄するのは、分かりやすい言葉が国民を味方につけるためには最も効果的だと知っているからだ。成る程、国民が支持すれば何でもできる。何しろここは民主主義の国である。こうして彼は、不十分ながら目的を達した。しかし、間違いなく彼はこのことによって国益を損ねることになったのだ。
 僕達が肝に銘じなければならないのは、一見単純で当たり前と思われることほど、疑ってかかった方がいいということだ。この世の中に単純なことは殆ど存在しないといっていいだろう。色々なことのいちいちについて深く考えていると頭がパンクしそうになるので、なるべく結論を急ぎたいと思うのが人情だ。分かりやすいことがあれば、ついそれに飛びつきたくなる。しかし、それで問題が解決するわけではない。僕達はいつの時代も、正義の味方が正義に味方しない世界を生きているのである。
 それを全く忘れている人達が、靖国の境内で参拝にきた首相を見つけて「キャー、小泉さん!」などと脳天気な声援を送ってしまうのだ。新世紀は始まったばかりだというのに、早くも世も末という感じである。


hajime |MAILHomePage

My追加