思考過多の記録
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2001年09月01日(土) 「愛」のお伽噺

 夏も終わりというこの時期になって、スピルバーグ監督の「A.I.」を見てきた。封切りして大分立ったので地元の映画館には空席が目立ったが、それがこの映画の評価をストレートに反映しているのかどうか、僕には分からない。ただ、全米ではそれなりにヒットしたというこの作品を見て、ハリウッド映画のある種の限界を感じたのだった。
 扱われている題材は、非常に興味を引かれるものであった。人間の「母親」に対する愛情をインプットされた人工知能(A.I.)搭載の子供のロボットが、捨てられた後も母親の愛を得ようと人間になるための冒険をするというお話は、実に様々な問題を含んでいる。人類とロボットとの共存は可能かというトピックもそうだが、最大のテーマは言うまでもなく「愛」である。この映画にはその設定からして、プログラムに基づいてインプットされ、学習機能を通じてより人間らしく実体化されていくロボットの「愛情」は、果たして人間の「愛情」と同じものか否か、といった大命題が潜んでいるのだ。「愛情」の一歩手前にある「感情」をロボットに持たせようという研究は現実にあって、AIBOなどはそのごく初期段階のモデルということになるのだろうか。給仕用のロボットや介護ロボットも今後本格的に登場してくるという。そういうロボット達が示す「感情」は、人間の感情と同じものと言っていいのだろうか。また、そもそも人間のかなり複雑な感情のあり方(悲しみつつ怒ったり、愛するが故に憎んだり、その逆だったり)を人工知能は完全に再現できるのだろうかという、純粋に技術的な問題もある。仮に完璧に再現できたとしても、それは厳密な意味で感情と言えるのか、甚だ疑問だ。すると、そもそも感情とは何か、という根本的な話に立ち戻っていくことになる。
 愛についても同様だ。いや、ことは感情よりも厄介(?)である。「愛」の全てのパターンを人工知能がプログラムとその後の学習によって再現したとすると、例えばロボットの男性と人間の女性の間に「愛」が芽生えたりすることもあり得るだろう。その時、ロボットの抱いた(この表現が適切かどうかも疑問だが)相手に対する「愛情」は、電気信号の処理によって生まれたある種の命令(コマンド)とその実行の集積の結果である。それは端的に言えば、僕がキーボードを使って打ち込んだある種のコマンドを、日本語変換プログラムが処理することで文字データに変え、それが「言葉」になっていくということと、レベルは違っても本質的には変わらないと思う。人工知能は自ら「学習」する機能を持っているが、それはあくまでも最初に与えられたプログラムの範囲内のことであり、それがどんなに高度になっても究極的には0と1との組み合わせの反応である。それを「愛」と呼べるのかどうかと考えることは、「愛」とは何かという非常に深遠で哲学的なテーマに人々を誘うことになろう。言わずもがなのことだが、これはそう簡単に結論が出る問題ではない。事実、有史以来世界中の哲学者や宗教家、芸術家といった人々が膨大な時間と労力を費やし、時には人生をかけてこの問題と格闘してきたが、未だに誰も「真の愛」を発見してはいないのである。
 こんなに深遠な問いかけの入り口に誘いながら、何とも残念なことのこの映画はそれを実に安易な方向でより深い思索に発展するのを回避するのだ。それは、ロボットの抱いた「愛」の本質を問わないという「思考停止」によってである。長い長い年月がたち、人類が滅びてロボットが支配する世界に蘇った主人公のロボットは、その時代のテクノロジーの力で彼の母親が実は彼のことを愛していたことを知り、ほんの短い間だが彼はその愛情に包み込まれることが出来るという結末になるのだ。殆どお伽噺の世界である。
 ハリウッド映画はエンターテインメントであることが最低条件になっているらしい。だから、今回のストーリーの中に潜んでいた筈の先に述べたような魅惑的な問いかけは、作り手にとっては物語を盛り上げるための単なる調味料に過ぎなかったのであろう。映画を見てまで深く考えたくはないと客が望むのなら仕方のないことだが、せめてもう少し哲学と娯楽のせめぎ合いを見せてほしかった。何とも食い足りなさが残る作品である。
 とはいえ、こうも考えられるだろう。この映画の中で人工知能の抱く「愛情」は、最初にインプットされた相手を対象とするものであり、それを変更することは出来ないという設定になっている。つまり、彼は壊れるまで同じ相手を「愛し」続ける。これこそ究極の「永遠の愛」といえるのではないか。生身の人間(映画では「リアル」と呼ばれる)の現実(リアル)の愛が往々にしてそういうものではないことを、僕達はよく知っている。それにもかかわらず、そんな愛が存在してほしいとどこかで夢見てしまうのもまた事実なのだ。その意味でも、この映画は「永遠の愛」=「真の愛」を巡るお伽噺だといえるだろう。そして、それがまさにお伽噺としてしか成立しないという事実が、本当の「真の愛」の姿を浮かび上がらせているように僕には思て仕方がないのである。


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