思考過多の記録
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台風が日本を通り過ぎていこうとしているが、それとは関係なくイギリスの話は続く。 僕がイギリスを含めたヨーロッパの国に行ったときに驚いたのが、美術館、博物館の類の殆どが入場無料だということであった(特別展を開催している場合は、それのみ有料の場合がある)。今回エジンバラとロンドンでそれぞれナショナルギャラリーを見学したが、どちらも無料だった。しかも展示内容は充実していて、有料にしてもおかしくないものだった。日本ならば、この中の一点が来たというだけでも長蛇の列ということになるだろう。 そう、僕が日本で美術館にあまり行かないのは、たまに足を運ぶ「何とか展」の類がいつも混んでいて、入場料を払って入っても殆ど人の頭しか見えないということが多いからだ。その上、客はロープで絵画から遠ざけられ、混雑が酷くならないようにということで立ち止まることも許されない。およそ芸術鑑賞というにはほど遠い、殆ど‘見物’というのに等しい状態だ。そんな所にわざわざ時間と労力を使って出かけたくはなかったのだ。 かの国の美術館には日本でお馴染みのロープはなく、彫刻作品を覆うガラスケースもない。勿論あの忌まわしい行列もない。何しろ広い(特にロンドンの方は半端でなく広かった)し、所謂‘一点豪華主義’ではないので特定の絵の前に人が群がるということもない。スペースがあるので、近付いて説明を見た後にぐっと後ろに下がって全体を眺め、また少し近付いて細部を確認するという見方が平気で出来てしまう。悲しいことにスケジュールの関係で時間が圧倒的になく、全てをゆっくり見ることは出来なかったのだが、それでも久し振りに絵を堪能した。各年代の絵画をいっぺんに見られるので、16,7世紀頃の絵画はかなりはっきりした色調だが、印象派になると相当淡くなり、題材から物語性が消えるという変化も、改めて目で確かめることが出来る。当然のことだが、画集とは色が全く違う。演劇人の端くれとしては、ライブと記録では伝わるものが全く違うということは常識だが、それは絵画にも当てはまるという全く当たり前のことを実感した。絵を見てこんなに面白いと思った記憶は今までにない。 凄いのは、日本では押すな押すなでやっと見られるような著名な画家の作品が、ロンドンに住んでいればいつでも無料で見られるという事実である。1年のうちでも休館日はクリスマスと元旦(と向こうでは言わないだろうが)くらいで、朝10時から夕方6時まで、水曜日は夜9時まで空いている。イギリス人は残業など殆どしないそうなので、ロンドンの中心部にあるナショナルギャラリーなら仕事帰りにふらっと立ち寄ることが可能だ。日本の公共の美術館・博物館の殆どが平気で5時で閉館するのとは偉い違いだ。民間の美術館では6時頃まで開いている所もあるが、規模では比べものにならない。それに、何と言っても「無料」というのは大きい。僕は決して自分の経済的な状況だけでこれを強調しているのではない(勿論それも大きい)。そこにあるのは、「芸術」というものに対する思想の違いである。ナショナルギャラリーのプランと呼ばれる館内の案内資料には「これらの絵画は公共に属する(belong to public)」とはっきり書かれている。芸術作品は公共の財産だから、それを維持するためのお金は政府(や自治体)という「公共」機関がみんなのお金である税金から出費する。したがって入場するためのお金は取らない、ということなのだ。これはエルミタージュでもオルセーでも基本的には同じである。日本の場合は、「芸術作品はそれを見る人に利益を与える(その他の人には関係がない)。したがって鑑賞する人達からその見返りとしてお金を徴収する」という発想に立っているように思われる。より多くの人が気軽に見られるようにとの配慮に欠ける点があるのではないか。 芸術、ひいては文化は社会全体のものであり、誰もがそれを享受する権利を保障するというのがかの国々の歴史が育み、人々に共有されている思想だ。そのことと、ナショナルギャラリーの入り口にあった「無料を維持するために、寄付にご協力ください」という募金箱の存在とが両立しているところが、かの国の人々の文化に対する成熟した姿勢を感じさせる。文化を大切にする国こそ、真に豊かな国であるといえると思う。 かつて成金国家日本の企業やブローカーは、バブルの金余りに乗じて美術品や絵画を買いあさった。それは勿論豊かな精神生活のためではなく、多くは右から左に転がして金を手にしようとしたり、「豊かさ」=経済力の象徴として誇示することが目的だった。そして僕達は、展覧会のチケットを買ってショーケースの前に群がり、それで「文化的」な生活を謳歌していると思っていたのだ。そしてバブルの崩壊とともに、美術品はあれよあれよという間に海外に出ていってしまった。僕達は、文化を「公共の財産」ではなく「商品」だと思い込んでいたのであろう。そして今、僕達にはどんな財産が残ったというのか。 複雑な思いで僕はナショナルギャラリーの募金箱に1ポンド硬貨を入れたのだった。
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