思考過多の記録
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| 2001年08月12日(日) |
「あの日」が二度と訪れないために |
昨日に引き続き長崎の話である。そこでは被爆者の人達だけではなく、核兵器廃絶のための運動(所謂「反核運動」)をしている人達の話を聞く機会がたくさんあった。両者に共通していたものは「若い世代に運動が継承されていない」という危機感だった。確かに被爆者の方々は高齢化している。被爆2世の方々もそろそろ中年世代に入ろうかという状況である。また、その方々を支援しながら核兵器廃絶を訴える運動を担う人達も、残念ながら全体として高齢化している。この先運動が先細っていき、組織として動くことが出来なくなれば、被爆体験の継承それ自体が難しくなっていくのではないか。そんな危機感を多くの人が口にしていた。 こうした事態への対策として言われていたのは、より多くの人に被爆の実態を知らしめ、運動に参加してもらうようにする。そのためには、被爆直後の惨状(例えば黒焦げになった少女の姿)の写真をパネルにしたものをそれぞれの地域で運動をしている人達が購入し、それを展示したり、それを見せながら被爆体験を語る機会を設ける。駅頭等での署名活動でより多くの署名を集める等々であった。 そのことが全て間違っているとは思わない。しかし、それだけで運動が若い世代に継承され、多くの人々に広がっていくとは僕には到底思えない。これには様々な問題が絡むのでとてもこのスペースでは書ききれないが、問題と思われることを2点だけ指摘しておこう。 第1点は、運動の手法が現代の感覚とマッチしていないということである。僕の組合が所属している上部団体は、某革新政党の強い影響下にある。それで、今回僕が参加した原水爆禁止世界大会も、その政党の指導の下に運動をしている組織の人達の集まりだった。彼等のやり方は、街頭や職場での署名、集会、コンサート等のイベント(「歌声運動」と彼等は呼んでいる)、広島・長崎への「平和行進」と呼ばれるデモ等々…1950年代以来の伝統的な左翼運動の手法そのままである。しかも、彼等は組織の名の下に整然と運動することをよしとしている。これは今の若い世代に最も嫌われるやり方だ。そのセンスはあまりに古くさい。この点を改善しなければ運動は広がらないだろう。いきなり被爆写真のパネルを見せたり、垂れ幕や旗の下に署名をさせることよりも、例えば中田選手が自分のHPに「核兵器はこんなにたくさんの人々を苦しめているんだ。核をなくすために、みんなも出来ることから始めないか」というメッセージを載せる方が、何百倍ものインパクトがあるということ、またそれに賛同して始まった全国各地の個々人の自主的な運動が、やがて連帯していく方がよほど広がりのある運動を形作れるという現代の状況に、運動をしている人達や某革新政党の方々は早く気付いてほしいものだ。組織や政党が表に出て、昔ながらの左翼の方法でやっていると、まるで平和について考えたり行動することそれ自体が何らかの政治的イデオロギーに与する行動であるかのように運動の外側の人達に受け取られてしまう。これほど悲しいことはない。 2点目は、運動のあり方そのものの問題である。現状では、被爆の実態の悲惨さを訴えることが最優先にされており、だから原爆は2度と使われてはならない、という具合に極めて情緒的な主張が叫ばれる。そして、「とりわけアメリカのブッシュ政権は…」という風に、核兵器を捨てようとしない大国を批判するのが常道だ(何故かアメリカだけがいつでも名指しである)。これは、東西冷戦時代に形作られた左右のイデオロギー対立の図式をそのまま受け継いだ主張である。確かに、ある時期まではこれでもよかったのかも知れない。しかし、冷戦終結後の新たな世界秩序の下、この種の運動には次なる展開が求められている。何故アメリカ等の超大国が核兵器を捨てようとしないのかと言えば、それは核の悲惨さを指導者達が理解していないからでは必ずしもない(そういう面も勿論あるだろう)。核兵器なしでは自国の安全と世界秩序を守ることは出来ないと彼等は考えているのだ。そして、それは現時点ではある意味で正しい。だから、もし本気で核兵器の廃絶を求めるのなら、核抜きの世界秩序を構築するにはどうすればいいのか、その新たな方法を模索しなければならないだろう。そのためには、政治家だけではなくあらゆる国々の多くの人々の叡智を結集しなければなるまい。核廃絶を求める運動は、その一翼を担える筈である。情緒に訴え、悲惨さを伝えるだけではなく、クールに政治的な戦略と方法を考え、核廃絶までの具体的なプログラムを作って政府や国際社会に向けて提案していく。そこまで視野に入れて活動を組み立てるなら、自ずと運動は深まり、広がっていくと思うのだ。 確かにこのままでは、核廃絶を求める運動は先細り、実際に被爆を体験された方々がいなくなってしまったら消滅することさえ考えられる。そうなったら、被爆者の体験や今日に至るまで続く彼等の苦しみは何の意味もなかったことになってしまう。そうならないために、僕には何が出来るだろう。原爆投下の時刻、長崎の蒸し暑い空気の中で、黙祷を捧げながら僕はそのことをずっと考えていたのだった。
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