思考過多の記録
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7日から9日まで長崎に行っていた。会社の組合の関係で、原水爆禁止世界大会およびそれに関係する勉強会に参加するためである。僕自身はそういったトピック自体には興味はあるものの、組合が加盟している上部団体の運動のやり方や主張には必ずしも賛成できない点がある。ただ、実際に原爆が投下された時間に現地にいるという体験をしてみたかったし、現場に飛び込めば運動の弱点がはっきり見えてくるだろうという思いもあった。 それに加えて、被爆者の方の体験を生で聞く機会を持ちたかった。僕は高校時代に修学旅行で広島に行き、そこで被爆体験を伺っている。だが、残念ながら殆ど記憶がない。問題意識は持っていた筈なのだが、その前後に遊んだ記憶の方が結構残っているのだ。今にして思えば、苦しかった自分の体験を語っていただいた被爆者の方に大変申し訳ないことをしたものである。その罪滅ぼしの意味でも、僕はもう一度生の被爆体験を聞きたいと思っていた。テレビなどの媒体を通しては嫌という程聞いてきた話でも、現実に体験した方を目の前にして聞けば、また違った思いがあるだろうと考えた。それで僕は長崎行きを決意したのだ。今回の旅費や宿泊費は、全て職場の人達のカンパによって賄われた。その意味でも、いい加減な気持ちでは行けないぞと肝に銘じていた。 出発に先立って、東京で参加者の顔合わせがあり、その席で、事前学習ということで広島で被爆された方のお話を伺った。僕にとっては19年ぶりに生で聞く被爆体験だったが、これが非常に印象に残る話だった。 その方はもう80を超えるお年の女性だった。その方は広島市内の住んでいて、小さなお子さんを抱えてあの災難にあった。崩れ落ちた自宅の下から血だらけの隣家のご夫婦に救出され、ご自身も勿論怪我を負いながら、お子さんを抱きかかえて隣家のご夫婦と市内を脱出したそうである。途中、全裸だったその方に見ず知らずの若い女性が防空壕から毛布のようなものを持ってきて自分に貸してくれたこと、その人達とはぐれて1人で逃げる途中、市の中心部で被爆した人達が壮絶な姿でやってくるのを目にしても何の感情も湧かなかったこと、顔が膨れあがり片目が飛び出してしまった小さな男の子が「お母さん」と言って自分の足に縋り付いてきたのを足で振り払っても、可愛そうだとも思わなかったこと、道に横たわる死体を踏みつけながら水を求めて何とか川に辿り着き、河原に横たわる夥しい死体をかき分けて流れの側に行き、「水をください」と呻いたり叫んだりしながら息絶えてゆく大勢の人達を無視して、ひたすら自分と自分の子供のために手で水を汲み続けたこと等を、その年老いた女性は淡々と語った。 「あの日の私は、鬼ですらありませんでした。どんな酷い光景を見ても、死んでゆく子供や死体を見ても、可愛そうだとか、怖いとか、そういうことは全く感じなかったのです。私はお隣のご夫婦や見ず知らずの若い女の方に助けていただいたのに、ただ自分と子供が助かることしか考えられませんでした。」そして、その日の自分を語ることが、自分が見捨てた人々へのせめてもの供養になると思う、しかしそれは自分が死んだ後、あの世で自分を恨んでいるであろう人達に出会ったときにどんなことをされるか分からないという恐怖心からなので、どこまでも私は自分勝手なのだ、と最後にその方はおっしゃったのだった。 彼女は最後まで戦争や原爆に対する憎しみを口にしなかったし、お決まりの「二度とこのようなことがあってはならない」という趣旨の言葉もなかった。しかし、そのことが逆に原爆の悲劇性と、それが体だけでなく心にも深い傷を与え、それによって何十年にもわたって人間を苦しめるものだという事実を浮かび上がらせる。 あの日の彼女の行動は誰にも責められないだろう。「人間らしさを失い、鬼ですらなかった」と彼女は言うが、僕はそれもまた人間の姿だと思うのだ。自分も大怪我をしながら必死に他人を瓦礫の下から救い出すのも人間なら、最後の力で懇願する人々を無視して自分と子供のためだけに必死に水を手で掬い続けるのも人間なのだ。勿論、その悲劇を生み出した元凶である原爆を作り出し、人々の頭上に投下したのも人間なのである。 56年を経てもなお忘れることの出来ない自分のあの日の行動を、多くの人々の前で告白し続けることは、想像を絶する精神的な苦痛があるだろう。心の苦しみに耐え、残された命を身を削るように自己の体験を語ることに費やし、そのことで心の傷を忘れ去ることを自らに禁じた彼女は、もはや十分すぎるほど罪を償ったのだと僕は思う。
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