思考過多の記録
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2001年08月05日(日) 逆行する人々

 連休の夜、花火大会の見物客が駅に通じる歩道橋上で将棋倒しになり、赤ちゃんやお年寄りを含む11人が亡くなる事故から、もう2週間が経とうとしている。当初錯綜していた情報は、現在でも全貌が明らかになっているわけではない。ただ、少しずつ分かってきたことは、当日の人間の流れをうまくコントロールできていなかったという実態だ。そのやり方のまずさは事前の交通規制の計画段階からのものだったらしいことも分かってきた。こうしたいわば主宰者側の責任は言わずもがなのことであるが、それと同じくらい重大な原因は、大会の会場から駅へ向かおうとして、交通規制を無視して一方通行の歩道橋を逆行した人達の存在である。これまた言わずもがなのことだが、事件の直接の原因は彼等の行動であり、その責任は免れない。11人の犠牲者は、彼等のその行動がなければ命を落とさずにすんだ人達なのである。勿論、心や体に傷を負った人達についても同様である。
 報道によれば、海岸から駅に向かうには、問題の歩道橋を通らなければかなりの迂回をする必要があった。時間が余計にかかる上に見物による疲労もある。出来るだけ歩きたくないし、早く家に帰りたい。そんなときに、目の前の近道は一方通行…。こんな場合、必ず‘チョンボ’する人間が出てくる。そして、それに多くの人が続く。いったん流れが出来てしまえば、多勢に無勢の警備員の呼びかけなどは全くの無力だ。「ルールは破られるためにある」という言葉がある。誰かがそれを破り、さらにそれに続く人達によってその流れが決定的なものになれば、今度はそれが新しい‘ルール’になる。初めのルールは、人の流れをスムーズにするためには個人の都合(近道)はある程度犠牲にするというものだった。そして新しく生まれたルールは、基本的には個人の都合を優先するというものだ。「赤信号みんなで渡れば…」という言い古された心理が働いたのだ。みんなが渡れば、たとえ実際の信号は赤でも、実質的には青信号と同じになる。駐車禁止や速度制限の標識も同じことだ。
 しかし、「みんな」が歩道橋を逆行したといっても、その流れは自然現象のように発生したのではない。最初に「みんな」の流れを作った個人(またはグループ)は確実に存在する。彼(もしくは彼等)は自分が‘ルール’を変えたことによって大惨事が起こったことに対して当然責任を負うべきである。だが、おそらく彼(もしくは彼等)は責任を問われることはない。極端にいえば、罪悪感を抱くことすらないかも知れない。何故なら、最初の人間が倒れたとき、多分彼(もしくは彼等)はとっくにその場所を離れ、帰路に就いていたと想像されるからだ。彼(もしくは彼等)が何ものであるのかを特定できる人はいないだろう。‘群衆’という顔のない集団の中に紛れることが出来れば、人は他人を犠牲にしても自分の欲望を満たすことを最優先に行動する。個々人がそれぞれに違う利害と欲望を持ち、それを最優先に行動すれば群衆は混乱に陥り、最終的にはごく少数の人間を除いて最低限の欲望すら果たせなくなる。それを避けるための‘ルール’を、‘群衆’という匿名性を隠れ蓑にして責任を回避しながら、彼(もしくは彼等)は自分達に都合がいいように変更する。彼(もしくは彼等)にしてみれば、自己は自分達が現場を離れた後に起きたのであり、直接の原因(将棋倒しの最初の転倒者)ではない。何よりも、逆行したのは彼(もしくは彼等)だけではない。「みんな」がその流れに乗ったのだ。悪いとすれば、それは自分達に続いた「みんな」だ、ということになる。
 けれども、この事故の引き金を引いたのは、やっぱり最初に逆行して人の流れを作った彼(もしくは彼等)だと言わざるを得ない。たとえ刑事的・民事的に責任を問われなくても、たとえ良心の呵責などこれっぽっちも感じなくても、彼等の行動とその意味を消し去ることは出来ないのだ。
 僕達は‘群衆’になると、責任感と方向性を失う。自分の利害と欲望だけが明確に意識される。そうして、流れに身を任せる。だが、果たしてこの流れはどこに行くのか、本当に自分や周りにとっていい方向に行くのかを常に考えている必要がある。そして、その流れの出来た原因、先頭に立つ人間、音頭をとる人々をしっかり見極めることが大切だ。その信号は赤なのか青なのかをクールに判断できないような状況は、かなり危ういだろう。
 そうはいっても、いったん流れの中に入ったら客観的に全体を見るのは極めて困難だ。だから僕はできるだけ‘群衆’を避けるようにしている。ただ「国」という群衆だけは、そこから逃れる術がない。


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