思考過多の記録
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チャットというものをやったことのない僕は、先日ある知り合いと一緒に入った新宿のネットカフェで、その知り合いがやっているチャットを初めて‘見学’した。チャットというと、ブラインドタッチは当たり前、目にもとまらぬ早さでレスを返していかないと会話についていけないというイメージがあったのだが、知り合いが参加しているのは初心者向けと銘打ったチャットルームだったので、それ程のスピードは必要とされてはいなかった。その知り合いなどは仮名入力の片手打ちで通しているくらいである。それでも(当たり前だが)刻々と増えていく発言を読みとってレスを返していくのは、ある程度の慣れが必要であろう。 そのチャットルームには最初1人だけが上がっていて、僕の知り合いがそこに上がったのだが、そのうちそれを見ていたかのように何人かが次々と上がってきた。最終的には5,6人の会話になったが、ここで僕はあることを発見した。チャットをやっている人には常識かも知れないが、話題が1つではないのである。チャット=会話と解釈していた僕は、1つのテーブルに参加者が座り、何かについて話している場面を想像していた。こういう場合、大抵はそのテーブルにいる全員が1つの話題を共有する。誰かが話題を提供すると、その他の人達がめいめいそれについて意見や感想を言ったりしながら会話が進んでいく。 しかし、チャットは少し違う。2人が会話しているところにもう1人が上がってきた時、その人は必ずしも前の2人の会話に‘参加’しなくてもいいみたいなのだ。既に上がっていた2人のうちのどちらかが、入ってきた人に対して全く別の話題をふる。するとその2人でその話題についてのやりとりが始まる。しかし、その前の話題はまだ生きていて、なおかつ後から上がった人も先にあった話題についてコメントしたりする。こうなると、1人が複数の相手に対して別々の話題のレスを返す場面が出てくる。参加者が増えれば当然こういうことが次々に起こるというわけだ。やっかなことには、個々人の入力のスピードや回線のスピードの差があって、話題が前後したり、話と話の間に別の人間の別の話が交ざったりして、よく見ていないとどの発言に対してのレスなのか分からなくなってくるのだ。勿論それを防ぐために、誰に対してなのかを発言の最後に書くというルールができているわけである。 ほぼ1時間、いろいろな人のいろいろな話題が飛び交った後、そのチャットルームからは次々に参加者が落ちていき、僕の知り合いも「じゃあ、あたしも落ちる」みたいなことを書いてあっさりと接続を切ったのだった。その人はそこの仲間の中で暇人を見付けて会うという目的で入ったのだったが、結局その目的は果たせなかった。しかし、時間潰しという意味では、十分に目的を達したことになった。 一口にチャットといっても場所によっていろいろな流儀があるだろう。今回僕が目撃した場所からチャット一般を論じるのは乱暴かも知れない。だが、少なくとも僕の中でのチャットのイメージは変わった。テーブルは1つなのではなく、いくつかのテーブルで何人かずつのグループが話している。なおかつ、話題は1つではなく、自分のテーブルの話題に参加しながら別のテーブルの話題にも参加できる。テーブルを越えてあっちこっちで様々な会話が飛び交うというイメージだ。僕はこれを見て、前にこの日記に書いた劇作家が自分の作品の方法論について語った言葉を思い出した。その人の舞台も、やはり登場人物がいくつかのグループに分かれ、グループ内だけでなく、グループを越えて別の話題の会話をする。各々の登場人物が多方向に意識を飛ばして会話をするこの状態を、その劇作家は「同時多発会話」と呼んでいた。チャットの場合は相手が見えないので、他の参加者を無視して自分が気に入った相手にだけ延々と話しかけることができる(実際、そういう参加者がいた)。もし、この「同時多発会話」状態を日常の顔を付き合わせた場面でこれだけ続けたら、おそらく神経が疲れてくるだろうし、「人の話を無視した」といって怒り出す人間も出てくるかも知れない。自分の話題が終わったらさっさと退席するという行為も、普通は非常識との誹りを免れないものだ。 だが、ここは電脳空間である。そこには固有のルールがある。勿論、日常の人間関係の常識がそのまま適用されるべき部分もある。難しいのは、顔が見えないことで、日常レベルでは不可能な筈のルールからの逸脱行為が可能になるということだ。 とにもかくにも、人間関係の変化を如実に反映しているのがチャットという場所である。それが実際の顔を付き合わせてのコミュニケーションにも影響を与え始め、それがさらにネットの流儀になって拡大再生産される。そういう相乗効果でコミュニケーションのあり方が変化していくのであろう。いろいろ考えさせられた1時間だった。
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