思考過多の記録
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昨日は七夕ということもあり、テレビではお勧めのデートスポットの特集などをやっていた。そういえば、街のカップルの数も心なしかいつもより多いような気がする。もともと夏は薄着になるとともに気分が開放的になる季節なので、カップルの数自体増えるのかも知れない。勿論その中の何組かは、地上付近の熱が冷めていくのに合わせるかのように、夏が過ぎると関係が徐々に冷めていったりもするのだが。それはともかく、幸せそうな2人の陰には、思い破れて泣いている人が必ずいるだろう。誰かを選ぶというのは、誰かを選ばないことを意味するのだから。 これと同じことは、世界中のあらゆる場所、あらゆる局面で存在する。時間軸を延ばして考えても同様だ。いまだに改善の方向が見えてこない南北の経済的・政治的格差などはその最たるものである。どこかが儲かったり豊かになったりしているということは、当然その分損をしたり貧しくなったりしているところがある。世界中誰もが豊かで幸せであるのが理想だが、現実にはそうはならない。全員がおしなべて金持ちということはあり得ないのだ。何故なら、世界のお金(即ち「富」)の総量は決まっているため、満遍なく行き渡るかわりに1人分はうんと少なくなるか、少数の者が多くの取り分を手にするかわりに残りの大多数は貧しさに甘んじるかのどちらかしかあり得ない。資本家を排除し、労働者による富の平等な配分を掲げた社会主義国でも、結局は世界全体の中における取り分の少ない立場に甘んじ、その国内では政権を握った独裁政党がその中からより多くの富を吸い取るということになった。 ある場所を巡って、ある民族が領土だと主張し、別の民族が自分達の土地だと主張すれば、当然争い事の種になる。一方が力尽くでその土地を囲い込み、地図に国境線を引けば、そこから追い出されて難民となる人々が発生するだろう。ある者達はホロコーストの犠牲になるかも知れない。誰が人類の「心の支配」の覇者になるかという宗教を巡る争いも同様の悲劇を生む。 偏差値競争しかり、市場を巡る企業による競争しかりである。構造改革には痛みが伴う。誰かが笑えば、その何倍もの誰かが泣く。これが現実の姿なのだ。当然それを妬んで殺人も起きるだろうし、戦争になる場合もある。地球上の誰もが等しく幸福になれることはない。幸福の量は限られているからである。 ならば、誰もが幸福になろうとするだろう。そのために、他人を出し抜き、傷付け、騙し、蹴落とし、時には命を奪いさえするだろう。だが、そうやって手に入れた幸福とは一体何なのだろうか。幸福のために払った代償は、もしかすると手に入れた幸福よりもずっと大きいかも知れない。 天の川を挟んで輝く織り姫と彦星は、出会いという幸福を手に入れようとその時を待っている。しかし、出会いを待ち焦がれる時間こそ、実際の出会いにもまして2人にとってはかけがえのない、幸福な状態といえるかも知れないのである。 けれども、これは幸福を巡る争いに敗れた人間のやせ我慢の論理だと僕は知っている。 そして、人は空腹の時、他人を思いやる余裕を持つことができない。
プラスマイナス幸せの在庫はいくつ 誰が泣いて暮らせば僕は笑うだろう プラスマイナス他人の悲しみをそっと喜んでいないか (中島みゆき 「幸福論」)
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