思考過多の記録
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2001年07月07日(土) 本当に恐ろしいものは

 「本当に恐ろしいものは、はじめは人気者の顔をしてやってくる」。このフレーズが問題になって、ある野党のCMがいくつものテレビ局から放映を拒否された。その理由は「特定の個人を誹謗する内容だから」だそうである。「特定の個人」とは勿論あの‘ライオン頭の変人総理’のことである。断片的に伝えられている問題のCMの映像の中には、それをにおわせるカットがないわけでもない。しかし、それにしてもこれは異常なことだ。もしもこれが当のCMを制作した野党の党首である‘護憲おばさん’をターゲットにしたものだったとしたら、果たしてテレビ局は同様の理由で拒否したのだろうか。
 これまで紹介された映像から判断すると、CMの作り自体はごくごく平凡なものだ。問題のフレーズは、秀逸という程ではないにしても、これまたごく一般的・常識的な真理(と言い切ってしまっていいことは、歴史をちょっと繙いてみれば分かることだ)であり、また平時の民主主義国において、まだ殆ど何もしていない内閣を80パーセント以上の国民が支持するという時代の危うい空気を言い当てているものだ。つまり、これはごく真っ当な「表現」であると考えられる。加えて、政党のCMであるから、多党との違いを際立たせるような言葉や内容にするというのは、これまたひねりのなさすぎる当たり前の方法だ。少なくとも、見ていて不快になるようなとんがった表現というものでは全くない。もしもテレビ局が純粋に「表現」としての質やレベルを問題にしたのだとしたら、放映拒否という判断は明らかにこのCMを買い被りすぎているか、判断基準や判断を下した人間の感覚に大きな問題があるといえる。‘公器’と言われるこの国のマスメディアが揃ってそのレベルだというのなら、それはそれで困ったことではある。
 だが、おそらく本当の理由はそうではあるまい。国会で‘変人総理’や‘お騒がせ外務大臣’を追及した野党議員のところに嫌がらせの電話が殺到したりしていることは、当のマスメディアが報じている。そして、それを報じることで、ある種の‘空気’が世の中に醸成されることに自らも加担しているのだ。そんなマスメディアが、自分達もその誕生に半分力を貸した国民的人気者の総理に対してケチをつけていると受け取られる可能性のある「表現」を、お得意の‘自粛’という手法につながるやり方で葬ろうと判断したとしても、何の不思議もない。大体、このCMは(少なくとも公式には)まだ放映されておらず、したがって実際にはまだどこからもクレームを付けられたわけではない。にもかかわらず、世の中の「空気」という実体のないものに怯えて、本来自由であるべき「表現」を、その自由を守るべき立場のマスメディアが自ら規制してしまったことが問題なのである。これが例えば政権与党からの圧力といった目に見える(もしくは主体が分かりやすい)ものが原因だというのであればまだ理解できる。圧力をかけた主体にどんな問題があるのかをつまびらかにし、対抗措置を考えればよい。しかし、「空気」というのはやっかいである。主体がはっきりしないのに、それはいつの間にか作られている。そして、その外側にいた筈の人をも、柔らかく、しかし確実に支配していく。そして、結果的にそれが間違った方向に僕達を導いていくとしても、その「空気」を支持した者のうち誰一人責任を問われることはない。
 今この国には、あの内閣に対しての批判は許さないという「空気」が充満している。本当に恐ろしいものはこうした「空気」だ。しかし、もっと恐ろしいのは、こうした「空気」に同調し、受け入れてしまう僕達のメンタリティであるといえないだろうか。
 「本当に恐ろしいものは、はじめは人気者の顔をしてやってくる」。
 そして、真に恐ろしいものは、その‘人気者’を待ち望み、作りだし、熱狂的に迎え入れる僕達国民、すなわち顔のない「大衆」なのである。


hajime |MAILHomePage

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